平成16年5月(2004−5)
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「世のため、人のため」
経 彦 さ ま 伝
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開教・独立までの軌跡
厳寒の中仙道
さて話は、門司築港の許可がおりる前年の明治二十年にもどります。
築港の許可をひたすら待ちながらも、神理教の独立請願のため経彦が上京するときのことです。
「伊豆彦――」
と、経彦が長男の伊豆彦を自室に呼んで、
「今回は中仙道をたどって東京に出ようかと思う」
と告げたのは、秋も深まった十一月のことでした。
門司築港の請願を出し終えた経彦は、必要に応じて上京しては神道関係者と意見を交換したり、宮様に拝謁してその道を説いたりと、精力的に活動していました。
「しかし父上、いまからでは雪です。次の機会になさったほうがいいかと思いますが」
と、二十三歳になる伊豆彦が心配しました。
返事はありませんでした。
伊豆彦に背を向けると、再び机に向かって執筆を始めました。
(どうあっても行く気だな)
と、伊豆彦は思いました。
いったん口に出したら、必ず実行に移すのが父親の性格です。反対するだけ無駄です。
「お供はどうされますか?」
伊豆彦がたずねます。
お供は毎回、一人か二人でしたが、豪雪の木曽路を思えば、お供は多いほどいいでしょう。
「一人で行く」
経彦が背を向けたままで言いました。
「はっ? いま一人、とおっしゃいましたか?」
伊豆彦は聞き間違えたのかと思いました。
「ああ、一人でじゅうぶんだ」
「しかし父上、有名な豪雪地帯ですよ。万が一――いえ、そんなことはないにしても、ちょっと危険が多すぎるんじゃありませんか」
「いや、一人でいい」
ピシャリと言いました。
話はこれまででした。
居間にもどると、伊豆彦は弟の高嶺に、
「どうして父上は、ああも頑固なんだろう」
とため息をつくと、たまたま居合わせた古川鎮弥が、
「だから今日の神理教があり、日本があるんですよ。――私がお供をして、初めて上京したときは、それはもう……」
と笑って、例によってニコライ神父との論争や、神道家諸氏と火の出るような対決をしたときの思い出を話すのでした。
経彦がお供を断った理由は、その雪でした。
教長である自分は、かまいません。
雪をかき分け、千里の道でも大丈夫です。むしろ極限の中に自分を置いて試してみたいという欲求もありました。しかし、弟子たちを道づれにするのはしのびなかったのです。
伊豆彦は何度となく、お供を勧めましたが、経彦は頑として耳を貸さず、一門信者が心配するなかを一人で旅立って行きました。
例によって旅装は、木綿の服に小倉袴、羽織のひもはこよりひもで、履物は歯の低い日和下駄。そして頭髪は、うしろで束ねて結んだ茶せん髪。ヒゲはあごまで伸びていました。このいでたちで、宮様に拝謁もすれば、布教で野宿もするのでした。
小倉から船で広島の宇品に渡り、山陽道から大阪、京都、名古屋とめぐって、さらに厳寒の木曽路を北上しながら布教を続けていきます。仏教で言えば辻説法にあたるでしょうか。足を止める人もあれば、降りそそぐ雪に顔をしかめながら足早に通り過ぎて行く人もありました。
長野の塩尻峠をやっとの思いで越え、下諏訪に到着したのは、年を越した二月一日の夕刻のことでした。
この日は朝から吹雪で、一夜の宿を提供してくれた夫婦が、
「もうひと晩、泊まっていったらどうだね」
と心配してくれましたが、
「なあに、じきにおさまりますよ」
と、親切な制止を振り切るように出発したのでした。
天候の顔色をうかがって布教して、なんの信仰ぞ――という烈々たる思いと、そして自分たちは箸をつけないで、経彦に温かい雑炊のお代わりを勧めてくれた貧しい老夫婦の親切が、経彦は心苦しかったのです。
雪に足をとられながら、這うようにして塩尻峠を越え、吹雪の眼下に点在する下諏訪の明かりを見たときは、安堵で、寒風に引きつった頬が自然にほころぶのを感じました。
(助かった)
と、正直、経彦は思いました。
熱い湯船を想像しただけで、足は自然と早まっていくのでした。
旅館はわずかに二軒。その両方に宿泊を断られてしまいました。荷物らしい荷物も持たず、見るからに粗末な袴はヨレヨレ、凍りついたヒゲに爛々とした眼、しかも下駄ばき――とくれば、断って当然でしょう。
それでも一軒の主人は、前金でよければ泊めようか、という考えがよぎりましたが、
「あやしい者ではありません。私は神道家で、九州から布教に来たのです」
と言われて、
(これは、おかしい)
と思いました。
仏教の坊さんも、キリスト教のなんとかいう神父も、布教にやってきたのは夏場です。それをわざわざ真冬にやって来ることからして、妙ではありませんか。それも九州から下駄ばきとは、正気の沙汰ではないでしょう。
「だめだね、満杯だから」
と、冷たく断ったのです。
経彦はおとなしく吹雪の往来へ出ました。
腹は立ちませんでした。
怒ってはならない、と思っていました。
怒りの感情の背後にあるのは、
(自分は国を救い、人を救うために苦労しているのだ。素晴らしいことをしているのだ。だから泊めて当たり前だ)
という思いあがりがあったからです。
苦労して布教することが、なぜ意義あることなのか?
「頼んだわけじゃない、あんたが勝手にしたことだろう」
と言われれば、たしかにその通りなのです。
苦難の布教が後世に賞賛されるのは、布教が崇高な行為だからではありません。苦労したからでもありません。崇高な行為を、そうと認識せず、相手に見返りを求めることもなく、布教とは宗教家の勝手な、そして一方的で献身的な行為であることを彼らは自覚していたからです。布教するのも勝手なら、宿泊を断るのも勝手――。経彦は、そう思ったのです。
経彦は旅館の熱い湯船で手足を伸ばすのはあきらめ、民家を訪ねました。吹雪は一段と激しさを増して、足はすでに感覚がありませんでした。
「おそれいります。私は九州の神道家で、神理教の……」
言い終わらないうちに、ジロリと一瞥されて、
「あいにく病人が出ちまってね」
と断られるのでした。
しかし、それでも経彦は決してうらむことはありませんでした。むしろ、憐れみをもちました。人の心の貧しさに、でした。
〈御名方の神は何処に逃げしかな病みて宿かす人の無きとは〉
〈立ちならぶ梢を陸の標にて雪に埋もるる諏訪の海原〉
経彦は二首の歌を詠むと、極寒の吹雪のなかをさらに和田峠へと向かって歩き出したのです。
経彦の足跡に、下駄から流れ落ちた足の鮮血が純白の雪に点々と染みをつけますが、それはたちまち降り注ぐ雪にかき消えていくのでした。
解き放たれた奔馬
教導職廃止に伴い、神理教は神道本局の直轄となり、教祖の経彦をはじめ門人たちの積極的な布教によって、神理教の勢いは日を追って拡張していきました。教会内部から一派独立を願う声が次第に強まっていきますが、神道本局は依然として首を縦に振ろうとはしませんでした。
そんな経彦を見かねたのが、神道界の重鎮にして、山岳宗教として著名な御嶽教の二代管長、鴻雪爪でした。
雪爪は言いました。
「佐野さん、おそらく本局は神理教の独立は認めないでしょう。このまま平行線です。もし、さしつかえなければ、御嶽教に転じて、独立の時期をうかがってはどうですか。当教の直轄とし、私としては、いつでも独立に尽力させていただきますよ」
雪爪は、教部省時代から権大教正として宗教行政に関わりが深く、経彦の活動ぶりについては十分承知していました。経彦の徳と力量を認めていただけに気の毒に思い、救いの手を差し伸べたのです。なにより他人の意見を取り入れる心の広さを持った人物でした。
独立のための方便とはいいながら、御嶽教に身を寄せるのは、神理教の教長という立場としては、天在諸神に対して、内心恥じいる気持ちはあったでしょう。しかし、独立という大義のためには、ここは耐えるほかありませんでした。
(鴻管長の好意は、〈時の氏神〉かもしれない)
と、経彦は思いました。
明治二十一年十月二十二日、神理教会は御嶽教に転じ、経彦は御嶽教の大教正となります。経彦、五十五歳のときでした。同時に、亡き父経勝に敬意を表し、雪爪は大教正を贈位して顕彰(功績などを明らかにし世間に知らせること)しました。