平成15年6月(2003−6)
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「世のため、人のため」
経 彦 さ ま 伝
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清 貧
経彦は、無駄づかいを徹底して禁じました。
消費文明を嫌悪(ひどく嫌うこと)しました。
西洋の合理主義は、物を物としか見ません。皿は皿であり、お金はお金にすぎない。そう言って、はばかりませんで
した。
神道は、そこが違います。
八百万の神々――すなわち森羅万象(宇宙間にある物)すべてに神が宿るとして、物自体に感謝の念を持つことを
説くのです。
「一厘の金、一本の藁しべといえども神様から授かったものだから、決して粗末にしてはならない」
というのが経彦の口癖でした。
なぜ皿に感謝するのか、なぜ茶碗に感謝するのか……。物に対するこうした感謝の念は、神が宿る、という宗教観
を持つ日本人にしか理解できないものでしょう。これが日本人の精神構造であり、神道が日本民族固有のものであ
ることにほかならないのです。
しかし入信して日が浅い信者のなかには、文明開化に浮かれるご時世にあって、功利主義という西洋の風潮に毒
され、ひねくれた考えを持つ者もいないことはありませんでした。
「しかしョ、教長はあんな立派なこと言ってるけど、陰に隠れて、一人で贅沢してるんじゃねえかな。畳を起こせば、小
判がざくざく、なんてよ」
夕食の後で、白湯をすすりながら、農民の亀吉が女房のお花にこう言って、皮肉の笑いを浮かべました。
「そんなこと言うのは、あんたくらいのもんだよ」
と、お花はとりあいませんが、亭主の亀吉は、
「教長だって人間だ。楽もしたけりゃ、甘いもんのひとつも食いたくなるってもんさ。信者の数を見てみろ。いくらだっ
て贅沢はできらあ」と、しつこくからみました。
「じゃ、あんたの眼でたしかめてくればいいじゃないの」
「ああ、いいとも。あした、晩めしをのぞいてきてやらあ。鯛の活き造りがピンピンしてるだろうぜ」
そういって、くるりと背を向け、せわしげに煙管で煙草を吹かし始めました。
亀吉はもともと信仰心は、あまりありませんでした。お花が持病の喘息を神理教の信仰によって治してもらったこと
から、いわば ”おつき合い“で顔を出していたにすぎませんでした。
さて、翌日の夕方のことです。
晩秋とあって、陽はみるみるうちに暮れ、あたりはすっかり暗くなっていました。亀吉は足音をしのばせ、外から
台所をうかがいました。古い家だけに、隙間だらけで、のぞきには不自由しません。四つん這いになり、廊下に両手
をついて障子の隙間から部屋の中をうかがうと、ちょうど経彦が箸をとるところでした。
(チキショー、鯛の尾頭つきに違いないんだから…)
と心のなかで憎まれ口をたたきながら、薄暗い部屋にしばらく眼をこらして、
(あっ!)
と叫びました。
団子汁でした。
そして漬物。
それで全部でした。
もっと別のおかずが出てくるはずだと亀吉はしばらく待ちましたが、結局、それだけでした。
(こいつは、まいった。俺より粗末なものを食べている)
と、亀吉は感心し、経彦を見直したのです。
明治から大正期にかけて、主食はほとんどの家が麦飯でした。米と麦との割合は、五対五、七対三というのが一般
的でしたが、主食料の不足を補うための代用食として、団子汁やうどん、そば、そばがき、餅などが食べられました。
団子汁というのは、いりこの煮だしに、味噌または醤油で味付けをし、これに大根や里芋を入れて煮込み、煮えたっ
たところでうどん粉の団子を入れるものです。経彦は、代用食のこの団子汁が主食だったのです。この夜を境に亀吉
は一変、熱心な信者になったといいます。
名家でありながら、経彦が貧しいのにはわけがあります。
施すのです。
貧しい者や、孤独の者に惜しみなく施してしまいます。義(正しい道理)を見ては潔くお金を出します。それに加えて
、本の出版や布教巡回のための資金、さらに弟子の養成などにも出費がかさみます。田畑山林は売り払ってすでに
なく、時に朝夕の食事にも事欠くありさまだったのです。
清貧を旨とするこうした生活態度は、結婚しても変わることなく続き、夫人の集義子や長男の伊豆彦、次男の高嶺
は、ずいぶん苦労をしいられたと伝えられます。
謀 議
神理教の勢力拡大に伴って、教殿建設の声が信者たちから起こってくるのは自然の成り行きだったでしょう。信仰
の道を学ぶのに場所はいらないとはいえ、心の拠り所として、修業の場として、教場はどうしても欲しいところです。
明治十四年、信者有志の寄進によって、自宅であった神理教教会所の東隣に、仮教場を建設することになりま
した。広さは三間に四間半の二十七畳と決まりました。
信者たちはそれぞれの立場に応じて、お金を、木材を、労力を惜しみませんでした。経彦は、期するところでもあっ
たのでしょうか、トレードマークの髭をたくわえ始めるのは、仮教場建設が始まってからでした。