平成15年10月(2003−10)
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「世のため、人のため」
経 彦 さ ま 伝
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「まず第一群の天地開闢――すなわち天地の始まりについて話して聞かせよう」
「この世の中がどうやってできたか、という意味ですかい?」
「そうだ。つまらんか?」
「めっそうもない。そんなこと、これまで考えてみたこともなかったもんで」
と、頭をかきながら、それでも源造は、目を輝かせて言いました。
人間、心根が変わると顔つきまで変わるようです。今の源造に、かつての与太者の雰囲気はなく、まるで気のよさそうな青年のようでした。
「源造、第一図を見てみるがよい。真ん中、すなわち太陽の中におわすこの神が、天之御中主神と言って、高御産巣日神、神産巣日神とともに、天地の中心に最初にお生れになった神だ。ここに書いてある『六合無不気』というのは、六合――つまり天と地と四方のすべてに気が満ちており、その気を天之御中主神が司っているというわけだ」
順次、第二図、三図、四図と、経彦は天地が創造される様子を説いていって、
「次に第二群の、なぜ我が国が皇国であるかだ。源造、皇国は尊いと思うか?」
「それはもう、尊いに決まってまさァ」
「なぜじゃ?」
経彦の眼もとが笑っています。
「そ、そんなことは、あっしには、ちょっと、そのう、どうも……」
源造は柄にもなく狼狽しています。
「これを見るがいい」
と、経彦は五図と六図を示しながら、
「五図でわかるとおり、地球上でいちばん日界に近いのが、我が大日本だ。そして六図のとおり、太陽・月から大日本へ、そして大日本から世界各国へ線が引かれているとおり、我が皇国は天孫降臨の国として、世界中から尊敬されているわけじゃ」
「はぁ……」
源造は、それまで考えたこともないような難解な話に感心するばかりで、次第に口数が少なくなっています。
「さて、七図以降じゃ――」
と、善因善果、悪因悪果の理を説明します。
まず善悪の所業によって「気」の上昇、下降を七図で表し、以下順次図を追って、その善悪が子孫にどう影響していくかを説明しています。つまり、先祖が善悪のどちらを積んだかで、子孫の栄養は決まるとします。
「じゃ、会長――」
と源造が身を乗り出して聞きます。
「あっしが与太ったのは、きっと先祖が悪業を積んだからでしょうね」
「たぶん、そうだろう」
と、経彦は微笑んで、
「しかし、ほれ、この最後の図を見るがよい。これは本人が善を積むことによって、先祖の霊を助けることもできることを説いている。」
「てことは……」
「おまえさんの悪業を先祖のせいばかりにはできないということじゃ、アッハッハッ」
と、声を立てて笑ったのでした。
そして、真顔に戻ると、
「源造、よく聞け。日本にはいろいろな宗教がはびこっているが、いまはやっている今様の神道は、迷信を振り回しているから、これは国を滅ぼす教えだ。仏法は妻帯を禁止しているから、これは子孫を絶やす道だ。えらい坊主に子孫がないのはもちろん、その坊主の出た家は、みな亡んでしまっている。孔子や老子の説く道は、世の中に無用の贅物だ。仁義や礼節などは机の上の飾りにすぎん。そして耶蘇教は――これがいちばん問題だが、我が日本民族を損なう教えである」
と、説くのでした。
キリスト教に対する経彦の危機感は、これまで再三紹介してきたとおりですが、ここでキリスト教の概念と、日本との関わりについてふれておく必要があるでしょう。

また、経彦のキリスト教に対する嫌悪は、古神道の立場とは別に小倉という街が微妙に影響していたのかもしれません。かつて小倉は、全国有数のキリスト教の街だったからです。
経彦の歯がみ
キリスト教が日本に伝来したのは、よく知られているように天文十八年(一五四九年)、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによってです。当時、日本は戦国の世で、織田信長が天下平定をめざして活躍していました。
信長が保護したため、一時は九州、西中国、安土などを中心として広く世の中に広まりましたが、伝道から約四十年たった天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉によってキリスト教は禁止されました。
小倉城下では、毛利勝信の時代からキリスト教の伝道が行われていましたが、細川忠興の入国によってますます盛んになります。
〈一六〇三年(慶長九年)小倉には、司祭一名、修士二名が常駐し、洗礼を受けた者は四百人に達していた。ガラシヤの命日には盛大なミサを行い、忠興は死刑囚を釈放し、教会に多額の寄付をした〉
と、『北九州の歴史』(葦書房)に記されています。
忠興はキリスト教の保護政策をとったのです。ちなみに「ガラシャ」は忠興の妻玉子の洗礼名としてよく知られています。慶長十五年には宣教師は十人に達し、信者は二千名を数え、小倉は全国有数のキリスト教の街になっています。
ところが慶長十八年、幕府はキリスト教の禁教を厳しく命令し、信者の弾圧に乗りだしました。忠興も幕命には逆らうことができず、極刑をもって信者に改宗を迫っています。キリスト教を邪教とする風土が小倉一帯に残っていたとすれば、経彦もまたその影響を受けたとも考えられますが、そのあたりは定かではありません。
キリスト教は以後、明治維新までの二百五十年という長い間にわたって、隠れキリシタンとして冬の時代を過ごします。我が世の春は、時の権力と結びついていた仏教でした。
そして、明治維新。
神道は国家の祭祀として蘇り、キリスト教は欧米文明の流入とともに息を吹き返し、台頭していきます。仏教は先に述べたように、神仏分離令により、廃仏毀釈の受難に遭います。