*** 本 教 質 疑 応 答 ***
質疑応答のページ公開に至った経緯について
ホームページの中に、質疑応答のページがあれば、もっと良いのではないかと思います。
私のように教会の先生方に限らず、他の人には話しにくい、言うには言えない悩みを抱えて
おられる方は、少なくはないと思います。
そんな時、公開されている、質疑応答の場があれば、それを読むだけでも、何らかの参考、
きっかけになるのではないでしょうか。
それに、お顔が見えなければ、話しやすいということもあります
。
神理教のホームページが、もっともっと、悩んでいらっしゃる方々の救われる場になりますよう
祈りつつ、失礼いたします。 誠に有り難うございました。
以上のご希望に応えまして「質疑・応答」の頁と致します。
「平成13年1月号から」 |
Q1−1
勉強不足で恥ずかしいことなのですが、神理教では、一家庭のお社に、複数の家の御先祖様
をお祀りさせて頂いてもいいものでしょうか?
神理教の先生に勧められて実家のお社に嫁ぎ先の御先祖様のお塚(?)を造って,お祀りさせ
て頂いたのですが、その後、家の中が落ちつかなくなってしまいました。
複数の家の御先祖を、ともにお祀りさせて頂く事に原因があるのでしょうか?
それとも他にあるのでしょうか?
勧められた以上、神理教の先生には聞くに聞けず、不安に思っています。
日頃お世話になっている先生を飛ばして、お伺いするのも順番が違うことは、良く分かっている
のですが・・・・・
私自身に問題があるのかとも思うのですが、何卒お教え下さい。お願いします。
A1−1
ご質問有り難うございました。
私どもの勉強にもなりますので、ご遠慮なさらずご連絡下さい。
あなたの先生には何かお考えがあるのでしょうから、私たちはそれを尊重したいと思います。
ただ、本教一般としてやむおえない場合を除き、一家庭に複数のご先祖をお祀りすることは、お
勧めしません。
やむをえない場合とは、一時的にお墓や霊殿を造るまで等が考えられます。
私たちが、一つの部屋に他の家族と住むのが嫌なように、ご先祖も気持ちよく思われない、と
考えられるからです。
一時的にやむおえない場合、社(ゆしろ)を複数にしたり、部屋を別けたりします。
この場合、間違えても向かい合わせにはしません。
向き合わせるということは、面と向かって対決、対立させるという形だからです。
今回のことは、何事も神様のより良くしてあげよう、とのお知らせと受け取られ、有り難いのお
気持ちで、明るく前向きに家やご自分を振り返る心がけが大切です。
そうした気持ちで、先生のお話をもう一度お聞きになられてはいかがでしょうか。
続Q1−2
お返事有り難うございました。
早々に先生にご相談いたしましたところ、神理教の先生の所属する教会で預かって頂けること
になりました。 本当に有り難うございました。神理教のホームページを開くことによって、また、ほ
んの少し道が開かれたような気がします。心より深く感謝してあります。
続A1−2
早速お便り有り難うございました。
結果的に教会で預かっていただくのが最良と思いますし、そうしたことになって私も安心しました。
大変素晴らしい先生をお持ちですね。
「平成13年2月号から」 |
インターネットやFAXでの質問にお答えしたものを皆様と分かち合いたく、紹介します。 普段の生活と信仰についての疑問や質問があれば、お寄せ下さい。 あまりにも基本的と思われることも、意外に深い意味のあることもありますので、遠慮なくお送り 下さい。 |
Q1.最初の教祖様は、どのような理由で神理教を起こされたのですか?
A1.皆が安心して暮らせる世の中を、皆で一緒に作ろうとして、神理教を起こしました。
神理教の御教祖は1人です。
世界中にあるおよその宗教の目的は、刺激的な毎日を送ることではなく、充実した安心だと思い
ます。
日本人が昔から信奉する神道では、神は形のない神の御意思を形に表す為に、人を産まれたの
だと考えます。つまり、安心して暮らすことの出来る世の中を作ることが神の御意思であり、その
方法を教えるのが神理教と言えます。
神様が勝手に素晴らしい世の中を作るのではなく、その為には私たちの自覚と働きが必要なので
す。古くて常に新しい神理教の教えは、その為の最も近い道であると確信します。
御教祖が神理教を起こされる理由となる、当時の状況を3つあげます。
1. 大昔より巫部の家に伝わる神道の教えがあり、それを世の中に役立てる家としての役割が
あったこと。
江戸時代は寺請制度といって、日本人は全員宗旨(葬式をする宗教)を仏教にしなければ戸籍に
入れられず、人間として認められない、と いう時代でした。
御教祖、巫部の家はそれ以前の大昔より神道の教えを広めてきたのですが、江戸時代にはそれが
全く出来なくなります。江戸時代の始めに、当時の巫部家の当主が豊臣家に味方し大阪城に籠って
討ち死にをしたことも、活動が出来なかった一因と思われます。
御教祖の父、常勝翁の時にも神道の復興を志しますが、仏教以外の布教ができない時代では、
それを果たすことは出来ませんでした。 しかし、常に書物や教えや気概は伝わってきたのでした。
2.御教祖自身、若い頃より世の中に役立つ為に、色々な活動をしたが、最後に神道の教えを
使って役立つことが神の御意思であり、最も効果的であることに気付かれたこと。
きんのう し し
@ 勤王の志士として
御教祖は、天保の五(1834)年二月十六日の生まれで、父である常勝翁の気持ちを受けて、幼少
より文字や和歌などの基本的な勉学に励みます。
十七才の時、西田直養という学者に国学(日本の歴史・思想など)を学んだ時、具体的にそれを世
の為に活かそうと、尊皇攘夷(天皇家を尊び、外国からの侵略を防ぐ)の道に踏み込みます。
すなわち、高杉晋作などと一緒に勤王の志士(江戸幕府を倒し、天皇を中心の政治に戻す)としての
活動をします。しかしこれは成功せず二十七才の時、当時の北九州を治める小笠原藩に他行禁止
(家の中に閉じ込められる)の刑を受けてしまいます。
A 医師として
これより、父母の孝行の為に学んだ医学をもって世の為、人の為に尽くしてゆきます。
御教祖の医学の技術もさることながら、神と祖先と人との関係や教えを説きながらの治療であった
ので、驚くべき効果がありました。
御教祖はお金のない人からは治療費をとらず、往診に行った家の貧窮を見て、お金を枕元に置くよ
うなこともされました。
門前市をなすほどのたくさんの人が、治療を受けに訪れたと伝えられます。しかし、医学では直すこ
との出来る人の数に限りがあることを実感するのです。
B 宗教家として
明治十三年に神理教会が国に認められ、公に教えを通じてより多くの人を救い、教えを当時では
珍しく印刷物で伝えることもするようになりました。自分が何をするのが世の為・人の為になる事か
をいつも考えておられたようです。
御教祖は医師としてのお働き以外に、事業家として門司港の開港を手掛けたり、郷土史家としても
今に残る“企救郡誌”の原文を執筆するなど、様々な働きをされています。
3. 明治九年に巫部の家に祀られてきた“天在諸神(あめにますもろもろのかみ)”に、はっきりと神
の道を広めることで世の中を良くすることを教えられたこと。 ある時より、御教祖の前に色々な神
が現れるようになり、御自分の精神を疑ったこともあったようです。
それがついに明治九(1874)年、天在諸神が木火土金水それぞれの神に分れそのお功徳を諭
されながら、現れられた時、御教祖は御自分の役割と方法をはっきりと見極められたのでした。
あまつかんわざ まこと みちしるべ
『目に見えぬ 天津神業 目に見せて 人の誠の 道標せん』の御歌は当時、四十三才の御教
祖の決意の表明でした。
御教祖は素晴らしい神道の教えを、巫部家に伝わる古い神道の教えと、御自分の体験よりどう伝え
るかを考えられ、最後に天在諸神に教え示される事により、神理教を興こされたのです。
この質問、次回につづく
「平成13年3月号から」 |
* * * 本 教 質 疑 応 答 * * *
Q 最初の教祖様は、どのような理由で神理教を興されたのですか?
A 神理教の御教祖は一人です。
先月の御質問で“最初の教祖様…”という言い方が少し気になったので、確認します。
「神理教の今の御教祖のお名前は、何と言われますか?」などと聞かれることがあります。
神理教で現在の教えの長(心の中心)になる人は、巫部健彦という名前で現在で四代目になります
が、管長または大教主という役職名で呼ばれます。
神理教の教祖は神理教の初代の管長または大教主ですが、二代以降の管長は教祖ではないので
す。
管長という呼び方は、明治の中期に神道系の教派神道十三団体と仏教系の二十六団体の長に国
から与えられた呼称のようです。他の宗教団体では、教主や会長などと呼ばれているようです。
教祖という呼び方は、教えの祖(親)という意味ですから、どこの宗教団体でも一人の場合が多いの
です。
他にも開祖や開基や宗祖などの言い方があります。開祖や脇祖という言い方などをして、二人以上
の場合も少ないながらあるようです。教祖がいない宗教団体もあります。例えば、日本の神道です。
宇宙・自然を私たちを産んでくれた親神として敬い、祖先を守り神として尊ぶ、という自然の信仰に
は名前もないし教祖もいないものだということです。
神道という名前さえ、仏教やキリスト教などが日本に入ってきた後に出来たものです。
神理教は、日本人が太古から信奉する神道を家の教えとして伝えられたものを大成・公開された佐
野(巫部)経彦命を教祖としています。しかし神理教という呼び名も明治の十三年に国に認められる
為に名乗ったものであり、教祖という言い方も御教祖自身がそれほど意識して名乗ったものとは思
われません。
御教祖が自ら新しい教えを創った、などとはお考えになってないと思われるからです。
神理教は最も神道らしい、神道の本筋であるという意識の方が強かったように思います。
教祖という呼称にはこだわっていないものの、神理教で教祖と呼ばれるのは、初代管長佐野(巫部)
経彦命だけということになります。ちなみに神理教の教祖は経彦命ですが、同時に巫部の七十七代
の家長です。
初代は饒速日命で高祖、十代の五十言宿祢命は宗祖、十二代の以美岐連命は先祖、十六代の
兄奇宿祢命は、開祖、三十一代の連麻呂命を中祖とおよびし、それぞれの功績を称えています。
「平成13年5月号から」質疑応答(Q&A)は、各月号に移項いています。 |