御教誡十箇条(略解の詳解)56
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第七条人は怒るとも己は怒ることなかれ2
2)教祖遺言から
・第六十一條・誠意は平和に繋がる
教祖様が、いよいよ現世の神業を終えて御昇天という時に、私たち門人に百條の御遺言を下さりました。
その第六十一條に、
『怒れる人に對する時は、己、先ず和げ誠を尽くしなば、人の心も自づから和らぎて、事なく世の中は治まるものなり。
(怒った人に対しての私たちの心掛けは、先ず自分の心を和らげて、誠実にその不満を聞きく事である。
次に、私たちのしてあげられる事を誠の心を持って相手に伝えれば、問題がこじれる事なく、世の中も平和に治まるものである。)』
との、お言葉があります。
自分の心の平安が、世界の平和に繋がるという、言われてみれば、当然の教えです。
(筆者付記
現代、次々に戦争が起こるのは、何億人もの信者を擁する世界宗教に、それを徹底する教えが無いからとも言えます。
奇跡ばかりを期待させても、我が心の平和の
実践を伝えなければ、戦争は益々火勢を強くするように思います。)
・第六十二條・有害な怒りと必要な怒り
しかし、六十二條に、
『一朝、怒に終日を空しくするは、心の浅ましきが故なり。人は怒るべからず。
故に私事に関しては、最も慎むべし。
されども、国家の為、人道の為、不義不正も為には怒るべし。
怒ること能わざる者は、我が友に非ず、我が弟子に非ず、我が信徒に非ず。
(朝に怒った事で心を掻き乱され、その日一日を仕事にも手が付かずに空しく過してしまうのは、その人の心が豊かで無いからである。
人は、基本的に怒るべきではない。
人は、怒られたり悪口を言われたりした事で怒るべきではなく、自分の事で怒るのは、最も忌むべきである。
しかし、国家の為・人の道の為・不義不正に対しては、怒るべきである。
怒るべきところで怒ることの出来ない者は、自分の友でも・弟子でも・信徒でもない。)』
との、お言葉があります。
他教でも怒りを煩悩などとして忌避する教えもあるようです。
本教でも七罪(怠・詐{嘘}・貪・憤・慢・憂・怨)の一つに挙げています。
しかし、同時に、怒りも他の六つの罪と同じく、理由があって、神から戴いたものと考えます。
神が怒りという感情を人間に与えたのは、私事ではなく社会の為だという意味です。
このお言葉は、御教祖自らの直筆を以て確りとお書き残しになられたことです。
御教祖の強いご意志に感銘するばかりです。
この辺りが、他の神道家又宗教者の、御教祖に及ばないところです。
3)夫婦円満の秘訣
私(故小田清彦師)の管轄内に、よくこの誠の教えを守り、自らを精神的に改善した人がいます。
ある日、その人が私に話したのは、夫婦間の心得、ともいうべきものでした。
「夫婦というものは、長い年月の中で、いつも良い時ばかりが続く事はありません。
ある時意見が別れて衝突が起こり、話がもつれてくることもあります。
そんな時、最後には頭の一つも小突いてしまおうかと、心ならずも怒ってしまうことがあります。
そうした危機一髪ということになった時、私は怒りを一転して笑いに変えるのです。
最愛の妻として迎えた時のことに自分の心を通わせて、怒るという自分の心を抑制するのです。
そうすると、妻の方でもそうした心に誘発されて良心を刺激されるのか、妻自身もその怒るという心を反省しているようです。
そして、その翌日からは、家の為・夫の為に。衝突した行いについても配慮して、一層尽くしてくれます。
私はこうして家を治めてきました。
今ではもう永い間、家の中で波風が起こったことがありません。
これは誠に信仰のお陰だと思っております」
と物語ってくれました。
主人が怒らないところから、家の内はこれ以上ないほど円満で、家の者が皆快く働くことから資産も日増しに増えたそうです。
今ではその土地の人達から、模範のように思われています。
これが本教に入って精神を磨いた徳なのです。
(筆者付記
笑顔の出ない場所や、笑顔の無い人は、つまらなく感じられるものです。
反対に、困った時や苦しい中でも、例え小さなことにでも喜びを見付け笑顔を作れる人は素晴らしいと思います。
長い冬の雪の中から、一輪の花を見出したような安らぎを与えることが出来るからです。
怒りを笑いに変えるのは、逆転の発想で難しく感じますが、それが出来る精神力を信仰で培われたのでしょう。)
4)御神文“吾が心清々し”
私ごとの為に家族へ怒りを向けると、家の平和を乱し、それが原因で、家庭の崩壊となることがあります。
また、他人へ怒りを向けると、交際が断たれ、それが原因で、仕事にも影響し、ついには社会から排斥されることがあります。
些細なことですぐ怒る癖のある人は、本能である祈りに気付き、信仰心を持つことです。
そして、神を信仰するには、日本民族の叡智の集積を受け継いだ本教を学ぶに限ります。
本教には、他の宗派には無い御神文“吾が心清々し”があります。
これは、須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、この言葉を詔りたまわれた故事から引用された、物部・巫部家に伝わる御神文です。
本教を信仰する人は、この唱え言葉を、朝夕に何度も唱えて心を磨きます。
そこで、この単純且つ明快な言霊(=言葉の霊力)が怒りを止める守りとなるのです。
5)世を渡る秘訣
朝には吾が心清々しと神前に決意を込めてお唱えしても、夕には心を濁らせるようでは、本教の教師・信徒とは言えません。
心の濁りとは、例えば、家や社会で問題を起こして荒立たせることです。
又、そこまでしなくても、七罪の心に染まることです。
この御神文をお唱えすると、自然に心が磨け、大海の水のような心持ちになってきます。
(筆者付記
私たちは、日頃常に不意{無意識の内に}罪に触れるものですから、この言葉を気づいた時に、声や心で唱えるのが良いのです。
出来ればその時、時折お伝えするゆったりとした長呼吸法を併用すると、より効果があることでしょう。)
大海の水は、いかに大きな河の濁った水が流れ入っても、たちまち青々とした綺麗な水に澄ましてしまいます。
これこそが、本当の神の心に習う、心の持ち方です。
人もこれと同じで、相手が怒気を含んできても、自分の心は大海の水のように、濁らないように吾が心清々しと唱えましょう。
神に仕え奉るように、この御神文を唱えながら相手に接したならば、怒るところも、怒らずに済むのです。
怒気を含む人も、ついにはこの潔白な態度に感化されて仲が直るのみか、将来の交際も、一層親密に行うことが出来ます。
私は、このように吾が心清々しを唱え、大海の水・神のような心持ちになるのが、即ち、世を渡る秘訣と思っています。
古くから、個人の些細な怒りに触れた為に、他人を傷つけたり、身を滅ぼしたりする事例が伝わっています。
又、或いは家財を失い、家の存続が出来なくなったという例は、社会の鏡として、数え切れないほどあります。
こうした話は、一々お話ししなくても、既に皆様はご承知のことと思います。(つづく)
