(おのづ)(から)(みち) 416 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

神・天国・()()は誰の発想?

           (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

言語と信仰

・言語

 言語は、人工言語であるエスペラントのように、先に文法があって出来たのではありません。

 各民族や地域で、身振り手振りを交え、声を使って共通の単語を作り、意思を伝えあう内に、自然と出来上がったものです。

 言語は、永い時間を掛けて出来上がった、各民族や地域の叡智の集積とは言え、気が付けば、その言語は文法に沿っています。

 ただ、言語は、似ているものはあるものの、民族や地域間での意思疎通は難しく、文法から違うものもあります。

 例えば、日本語、英語、中国語等は、殆どお互いに意思疎通が出来ません。

・信仰

 人は生まれながら祈りの心を本能として持っています。

 同時に、共同生活をする生き物ですから、対象は何であれ、祈りはしばしば村落や会社等の組織で共通性を持つことがあります。

 それが信仰と考えます。

 過去には、村落の人等が共通して祈る場である、鎮守の森の神社や(ほこら)、お寺があり、それは他国でも教会などがありました。

 その習慣は、信仰に興味が持てない人や、反対に特定の教団以外は拝礼を拒む厳しい態度の人がいたりして、薄れつつあります。

 しかし現在にも引き継がれる部分もあり、例えば観光で神社やお寺や教会に行けば、多くは皆で手を合わせ(こうべ)を垂れます。

 厳しい態度の人も自分の属する教団では集団で拝礼しますし、どこでも頭を垂れる(ゆる)い態度でも、一緒に拝むのが信仰と言えます。

 信仰も、永い時間を掛けて出来上がった、各民族や地域に叡智の集積とは言え、気が付けば、その信仰は教義に沿っています。

 ただ、信仰は、言語と違い、基本的な教義は不思議な事に各民族や地域間に共通なのです。

 各、信仰・宗教の共通の教義の基本は、各民族や地域に存在する神話を比較すれば、その共通性が理解出来ます。

 それぞれの神話の(ほとん)どは、神と共に天国や黄泉があり、男女神の物語があります。

神・天国・黄泉は誰の発想?

・世界宗教の創案か?

 これを(かんが)み、死後の世界・天国黄泉や男神女神の神話の発想は誰なのでしょう。

 以下に挙げる三大とか五大とか言われる世界宗教でしょうか?

 中東に始まるユダヤ教やキリスト教やイスラム教等の一神教や、中華の道教や儒教の教祖でしょうか?

 インドのバラモン教やヒンズー教やその(ぼう)(りゅう)ともいわれる仏教や、古代エジプトの宗教でしょうか?

 各宗教の教信徒は、自分の属する教派の神

仏が創造したものと、思い込んでいることでしょう。

 しかし、それぞれの教派の聖典や教義を確かめると、天国・黄泉の内容は詳しくても、誰が何時創ったかは記載が無いと思います。

 神・天国・黄泉の発想は、世界宗教などではないのです。

・叡智の形成経過

 勧善懲悪は人の本能ですが、生きている世界だけではそうはいかない場合もあります。

 善い行いや心掛けをしていても不運に見える人や、悪い行いや心掛けをしていても、常に幸運に見える人がいる場合の考え方です。

 それらの人は幸運・不運が続くように見えても、人生の後半、或いは死後もそのままである(はず)がないと思いたいものです。

 そうした意識の中で、死後の天国・黄泉の考え方が形作られたのだと思われます。

 現世だけでなく、先祖や死後を加えた、幅広い見地と言えます。

 (ちな)みに本教では、この二つの死後の行き先に迷いの世界が加わり、三つとなります。

 他教での幽霊は、迷いの世界にいる霊魂の、(さが)なき仕業(生前の欲を動物や人に取り憑いて果たそうとする等)と考えます。

自然教(=(てん)(ぞうの)(をしへ))

 誰の発想?、それは、各民族や地域に存在する神話を創った人、即ち各民族や地域に集積された叡智、即ち自然教です。

 死後の世界天国黄泉男神女神の神話の発想は、それぞれの民族の叡智の結集でありながら人類共通で、これが自然教(=天造教)です。

 それを、以後の人が創った宗教(=(じん)(ぞうの)(をしへ))が利用したのだと思われます。

 自分達の天国の方が素晴らしく、例えば綺麗な男女がいて、美しい音楽や美味しい食べ物があり、或いは酒池肉林と勧誘します。

 反対に、もし自分たちの教えに入らなかったら、自分たちの()()()(ごく)(れん)(ごく)の方が恐ろしいという風に、(おど)すのです。

 自然教の黄泉は反省と祓いの場ですが、他教は地獄・煉獄と恐ろしげな名前を使っています。

 自然教の天国・黄泉が、勧誘の為の『(あめ)(むち)』のように道具に使われてきたのだと思えます。

(あめ)(むち)』は、結果的に戦争を生むことにも繋がるように思えます。

・本来の自然教(=天造教)の教え

 本来の自然教は、清く正しく美しく生きさえすれば、民族や政治や宗教さえ越えて、誰でも天国に行けると考えるものです。

 また、加えて此の世を天国のようにする事が出来ると考えるものだと思います。

 縄文・弥生時代に戦争の痕跡が殆ど無い、というのはこうした考え方が根付いていたのでしょう。

 もし罪を犯して黄泉の国に行っても、そこは自分の罪に気付き反省する場所であり、永い間(ひど)い目に遭わされる場所ではないのです。

 反省と祓いによって心は清く軽くなり、生前の徳が(つばさ)となってより高い神の世界に帰り昇れると考えるのです。

 そして、神道の天国(=()(わか)(みや))は、綺麗な男女や音楽や酒食より質の高い、霊魂の安定出来る場と考えます。

 子孫の幸せを見て安心し、もし子孫が間違いを起こしそうな時は、夢や小さな病気災難で知らせようとすると考えます。

 子孫を見守る事が出来るという、質の高い充実感を得る(ところ)とも考えるのです。

 こうした自然教(=天造教)の一つが日本の神道であり、それが本教に伝わっています。

 公平な外国の宗教学者が、神道は原始的(=プリミティブ)ではなく、基本的(=プライマル)な宗教と言うのは、此を指しているのです。

 清く正しく美しく生きる方法を、よい意味で競うのは()(かな)っています。

 反対に、勢力や利権を目指しての競争は、戦争を呼び込んでしまうのは、歴史が証明しています。

自然教(=天造教)である神理教

 自然教の一つである神理教は、この環境が母体となり、80代を越える長い時間を掛けて、更に洗練されて来たのだと考えています。

 それぞれの時代に合わせて、言霊学や霊魂観や古医道等と併せて解説・活用されてきたのです。

令和7年8月号 No.1338  2025-8

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