(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
*台湾や韓国やタイ2
先月号を少し振り返ると、台湾などの国々は、二、三十年前の日本人の信仰への姿勢を思い興させる、ということでした。また、
台湾の信仰に熱心な旅行案内人が、道教・仏教に入信するまでに至らないのは、生活規範など面倒なことが多いから、迄でした。
とは言っても、それぞれの生活規範や歴史や教えの内容もかなり詳しく知っていて、お参りの作法や意味等、教えてくれました。
道教・仏教を別け隔てなく尊崇する姿は、日本人と似ていますが、違いは道教・仏教の教えを理解している点のように思います。
日本には、神道・儒教・道教・ヒンズー教・仏教・キリスト教等が一般に知られています。
しかし、その教えの一部も知らずに、乱暴にどれでも一緒、と思っていたり、それを口にしたりする人が多いようです。
私達の案内人の親の葬儀は、偶々道教では
なく仏教で行ったようですが、そのお寺の檀家になってはないそうです。
元々七道輪廻の仏教に先祖崇拝の教義は無く、日本の風習を一部真似てか、個人の霊祭・法事は七年迄、という家もあるようです。
霊祭・法事は、子孫の思いによって道教・仏教に拘らず行うようです。
七年の後は、個人や家の霊璽・位牌を、やはり道教・仏教に拘らずどちらか、或いは両方に納めて祈るということのようです。
考えようによっては、自由な信仰の受け止め方で、それで納得しているようなので、取り敢えず問題はないのでしょう。
ただ、私は、中華や台湾に本来あったであろう神道のような自然教を知っていると、より良く違った考え方が出来ると思います。
まあ、案内人の道教の捉え方が、道とは違い日本の神道と似ているので、日本の神仏習合のようなものかも知れません。
*神仏習合
ではその神仏習合の考え方とは、どんなものなのでしょう。
東南アジア・中華・朝鮮半島で祀られてきた諸神は、仏教の本地垂迹説により、使い走りであるとして支配されます。
仏教と一緒に現れた本地垂迹説は、何の根拠もありませんが、何故か皆、一時的にでもその説というものに囚われたのです。しかし、
時代が下るに連れ、発祥の地であるインドでもヒンズー教が大勢を取り戻します。
また、仏教国となったタイを除き、東南アジアはイスラム教や元の信仰に変わります。
中華・朝鮮半島は元の道教や儒教が勢力を取り戻し、キリスト教が入るなどして、仏教は残るものの半減します。
最後に伝わった日本は、出雲大社でさえ僧侶が神官にとって代わり、主祭神を大国主命から須佐之男命に変えられた時期があります。
又、江戸幕府の寺請制度の強要と、明治政府の神社神道の神主の葬儀・霊祭と布教禁止施策により、未だに大多数が仏教徒です。
不都合な事実として日本人の多くが知らない是等の歴史を顧みたとき、それが普通で自然だとは、到底思えないのです。
日本以外のインドや東南アジアや中華や朝鮮半島は、半分以上を取り戻した時に、本地垂迹説の脅威を忘れたのだと思われます。
日本は、気付いてもない人が大部分です。
*仏教・道教・儒教の死後観
空や道は東洋哲学といえます。
仏教の釈迦は、生死を彷徨う苦行をする中に、食事を振る舞われ、美味しさを感じると同時に、苦行の不要を悟ったと言われます。
そして、上座部(=小乗)として出家をして悟る釈迦の無我や、それを分かり易くした龍樹の空によって大乗として理論化されます。
出家せずとも、空を体得すれば誰でも悟りの境地に入ることが出来る、というものです。
しかし、いつの間にか、その教えに入ら(帰依し)ないと、天国(てんごく)を極楽と言い換えて、そこには行けないとなります。
また、黄泉を地獄と言い換えて、極楽に行けない人は、そこで針山等に追われ、肉団子にされる等して、永く苦しむとされます。
また、七道輪廻して生まれ替わる、ヒンズー教の教えを伝える派もあるようです。
道教は、不老長寿の仙人となるか、死後仙人になるという、少し現実離れした天国観があるようです。地獄は、仏教の影響もあり同じ名前を使うようです。
初めは死者を鬼と呼び地底で罰を受けるが、仏教と混同され、同じ様な地獄観となっているようです。
曖昧ながら、入教により、地獄に行かずに極楽に行くような感覚のようです。
因みに儒教の死後観は、先祖を敬愛するものの、行き先は無いというか、人には解決出来ない問題として考えない、とします。
氏名を木主・位板・神主・位牌等と呼ばれるものに書きとどめるのみ、とのことです。
*神道の悟り・誠
・神道の死後観
本教では、神々の世界である天国(てんごく=日の若宮)と黄泉と迷いの世界の三つです。
細かい説明は、8月号で述べる予定です。
仏教では釈迦の無我や龍樹の空が全てであることに対し、神道は無や空になるものはあっても霊魂の不滅を疑わないところです。
食欲や性欲や物欲は消えて無や空に帰しても、敬神尊祖と子孫への愛情は死後も消えないと、神道では考えるのです。
日本仏教の先祖崇拝は、釈迦の上座部(小乗)や龍樹からの大乗仏教とは違い、日本人の習慣に添った、日本独自の儀礼宗教なのです。
*入教の要・不要
本教の目的は、先ずは此の世を神代となす、で一人一人の安心・幸福(=霊魂の安定)です。
その為に、幸福への道程等、分かり易い心掛けを紹介しています。
その幾つかを行えば、国・民族・政治・宗教を越えて、誰でも幸福に導かれ、死後も子孫を見守る至上の喜びが味わえるというものです。
従って、入教しないと現世の幸福や死後の喜びが得られないとは考えません。
入教される理由の一つは、大系化された本拠の教えを深く学び、他に伝えたい、です。
二つは、教徒(仏教の檀家)となり、本教に伝わる霊魂観・四魂論に則った祝詞や祭式により、葬儀・霊祭を受けたい等、です。
三つは、教師となり、祝詞や祭式・十種神宝や宇良奈比真伝を学び伝え、神式の葬儀・霊祭を行う等、世の為人の為に活かしたい、です。
・誠
誠の本言(=その言葉の持つ本来の意味)は、天津・言で、神の意思ということです。
先月号で触れましたが、空や道という仏教や道教の悟りは、人生を楽にする考え方の一つですが、宗教の教えというより哲学です。
考えついた人は、宗教者かも知れませんが、その気付きは哲学と言えます。
その哲学の元にあるのが、地域や民族の叡智の集積である世をより良くするための神の意思で、それを本教では誠と呼びます。
誠は古神道に受け継がれ、本教の初代管長経彦により示された、日本民族の叡智を集積した哲学・悟りの原点となる言葉なのです。
