(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
*道を活かし、現代社会で勝つ方法2
先月号を少し振り返ると、タオピスト(道の遣い手)は肩肘を張らず、ありのままである。(ここまで)
従って、下に高圧的になることもなく、上にぎこちない態度になってしまうこともない。
反対に、学歴や年収が高く見栄えは良くとも、上下を意識する“嫌な感じ”の人もいる。
自分でも気付かないままに肩肘を張り、上に諂い下を見下しているのである。
タオピストは自分が相手の能力や財産等を気にするメガネを外しているから、相手も心をゆるしてメガネを外す。
能力や財産等は、夢として消えることを気が付かぬ内に体得していて、他人と争うより海として受け入れている。
その結果として、能力や性格も良い人と添い遂げるのだが、本人には勝ったという意識すらない。
それは、例えば転職等にも共通で、資格や特別強い意識が無くとも、環境の良い職場で働いている。
老子の天下を取る・勝つとは、俗世間のメガネを外し、海のように受け入れている内に、思いのままになっている。』ということです。
*タオピスト(道の使い手)の強み
『P』氏は、
タオピストの最大の強みは死が存在しないこと、とし、老子の道徳経を引用して、
『堅強なる者は、死の徒なり。
柔弱なる者は、生の徒なり。76章』を、
『堅く強張った者は、死の仲間である。
柔らかく弱い者は、生の仲間である。』と解釈して、更にこれを、
『外で通用しない、という脅しが効くのは、例えば会社を辞めたら社会から孤立する(=社会的な死)という思いがあるからである。
しかしタオピストは会社がフィクション(虚構)と捉えていて、ゲームで1回死ぬくらいにしか思ってないから脅しても無駄である。
仮に転職先が無くとも、生命の繋がりを感じて生きているから平気で、まさに社内に居ながら社外に居るようなものである。
こうした不死身の感覚を持っている人は強く、仕事もうまくいくし、みんなからも好かれる。
これが、道のパワーを婚活や転職などに活かす方法だ。』というのです。
*筆者の感想
身の周りを振り返ると、タオピストと言われるような人は、結構いるように思えます。
ただ、道を学んだから、タオピストになったというのではなく、人生を誠実・懸命に過ごす内に自然に身に付いたのだと感じます。
タオピストは、道を学んでなれるというより、自分の役割を見つけた時に、努力は楽しみ、と体得した人だと思います。
道や空というのは、確かに人生を楽にする考え方ですが、言語でいう文法であり、生き方・信仰に於ける法則・教義のように思えます。
元は、2月号で触れた、実は簡単な悟りや哲学という、言語と一緒に信仰として形成された世界の地域・民族の叡智ではないでしょうか。
*『P』氏と道
『P』氏は、老子の道徳経の、
『窪めるは、すなわち盈つ。22章』を
『空っぽだからこそ、道と繋がることが出来る』とし、座っているだけの老子や無職の莊子は、空っぽを極めることによって、無限のパワーを使っていた、としています。
道を絶賛しているのです。
『P』氏は、離婚や無職を伴う自分の空っぽがみんなにバレたら、先ずは社会的死だと思っていたそうです。
しかし、それは勘違いだったと述懐しています。
空っぽの自分を知って離れて行く友人は少なく、逆に空の部分を共有する、むしろ深い人間関係が出来てきたとのことです。
こうした人間関係は、無くなってしまう心配が少なく、社会的な死と思い込む絶望が、実は自由だったことに気付いたそうです。
旅行などに誘われ、空いてない日が無いことに気付いた時、無敵だ!と感じたそうです。
やりたいことが見つからなくて終わったと思っていたら、空っぽになった時、この著作等、向こうからやって来た、とのことです。
*老荘思想の分かりづらさ
『P』氏は、タオピストのように、普通なのに、何故かうまく行く人に自分もなりたいが、道の境地に至るにはどうすれば良いか。
老荘思想に、分かりづらいところがあるのは、その境地に至る方法や修行を語ってない、としています。
そこで、中華の禅や、日本仏教の密教や浄土真宗に付いての解説と進めています。
ここから先は、興味のある方は、『しんめいP』氏の『教養としての東洋哲学・自分とかないから』を参照下さい。
参考になる部分もありますが、私はここまでと同じく、共感する部分は多いのですが、結論に至ってないように思いました。
神道の誠1
*台湾や韓国やタイ1
そこで以上の東洋哲学と比べながら、過去の文と重なる部分があるかも知れませんが、神道の悟りをお伝えさせて頂きます。
以前台湾に行った時、私達の十倍程(五千円弱)のお賽銭を入れ、真剣に祈る旅行案内人の信仰の篤さに感銘を受けました。
私の感覚ですが、幾つかの道教や仏教寺院を巡り、参拝者の姿勢を観ると、信仰の篤い人の割合が日本より多いように思いました。
それは、以前韓国やタイに行った時にも、同じ感覚に囚われたことを思い出しました。
今の日本人の多くが社寺に訪れた時に取るある意味クールな態度でなく、良い意味で泥臭く感じました。
熱心に祈る姿を多く見るのは、二、三十年前の日本の社寺での風景を、懐かしく思い興させるものでした。
その熱心な案内人に聞くと、多くの台湾人は、道教や仏教寺院で願い事や祖先の幸せを熱心に祈るのだそうです。
しかし、その案内人も信者にはなってないのは、入信すると生活規範など面倒なことが多いからだそうです。(つづく)
