(おのづ)(から)(みち) 415 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

悟り・仏教の(くう)道教の(たお)と神道の(まこと) 4/5

           (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

(古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

道教の(たお)

(たお)を活かし、現代社会で勝つ方法2

 先月号を少し振り返ると、タオピスト((たお)(つか)())(かた)(ひじ)を張らず、ありのままである。(ここまで)

 従って、下に高圧的になることもなく、上にぎこちない態度になってしまうこともない。

 反対に、学歴や年収が高く()()えは良くとも、上下を意識する“嫌な感じ”の人もいる。

 自分でも気付かないままに肩肘を張り、上に(へつら)い下を見下しているのである。

 タオピストは自分が相手の能力や財産等を気にするメガネを(はず)しているから、相手も心をゆるしてメガネを外す。

 能力や財産等は、として消えることを気が付かぬ内に体得していて、他人と争うよりとして受け入れている。

 その結果として、能力や性格も良い人と()()げるのだが、本人には勝ったという意識すらない。

 それは、例えば転職等にも共通で、資格や特別強い意識が無くとも、環境の良い職場で働いている

 老子の天下を取る・勝つとは、俗世間のメガネを外し、のように受け入れている内に、思いのままになっている。』ということです。

タオピスト((たお)の使い手)の強み

P』氏は、

 タオピストの最大の強みは死が存在しないこと、とし、老子の道徳経を引用して、

(けん)(きょう)なる者は、死の()なり。

 (にゅう)(じゃく)なる者は、生の徒なり。76』を、

『堅く強張った者は、死の仲間である。

 柔らかく弱い者は、生の仲間である。』と解釈して、更にこれを、

『外で通用しない、という(おど)しが()くのは、例えば会社を辞めたら社会から孤立する(=社会的な死)という思いがあるからである。

 しかしタオピストは会社がフィクション(虚構)と捉えていて、ゲームで1回死ぬくらいにしか思ってないから脅しても無駄である。

 仮に転職先が無くとも、生命の(つな)がりを感じて生きているから平気で、まさに社内に居ながら社外に居るようなものである。

 こうした不死身の感覚を持っている人は強く、仕事もうまくいくし、みんなからも好かれる

 これが、(たお)のパワーを婚活や転職などに活かす方法だ。』というのです。

筆者の感想

 身の周りを振り返ると、タオピストと言われるような人は、結構いるように思えます。

 ただ、(たお)を学んだから、タオピストになったというのではなく、人生を誠実・懸命に過ごす内に自然に身に付いたのだと感じます。

 タオピストは、(たお)を学んでなれるというより、自分の役割を見つけた時に、努力は楽しみ、と体得した人だと思います。

 (たお)(くう)というのは、確かに人生を楽にする考え方ですが、言語でいう文法であり、生き方・信仰に於ける法則・教義のように思えます。

 元は、2月号で触れた、実は簡単な悟りや哲学という、言語と一緒に信仰として形成された世界の地域・民族の叡智ではないでしょうか。

P』氏と(たお)

P』氏は、老子の道徳経の、

(くぼ)めるは、すなわち()つ。22章』を

(から)っぽだからこそ、(たお)(つな)がることが出来る』とし、座っているだけの老子や無職の(そう)()は、空っぽを極めることによって、無限のパワーを使っていた、としています。

 (たお)を絶賛しているのです。

P』氏は、離婚や無職を伴う自分の(から)っぽがみんなにバレたら、先ずは社会的死だと思っていたそうです。

 しかし、それは勘違いだったと(じゅっ)(かい)しています。

 (から)っぽの自分を知って離れて行く友人は少なく、逆に空の部分を共有する、むしろ深い人間関係が出来てきたとのことです。

 こうした人間関係は、無くなってしまう心配が少なく、社会的な死と思い込む絶望が、実は自由だったことに気付いたそうです。

 旅行などに誘われ、空いてない日が無いことに気付いた時、無敵だ!と感じたそうです。

 やりたいことが見つからなくて終わったと思っていたら、空っぽになった時、この著作等、向こうからやって来た、とのことです。

老荘思想の分かりづらさ

P』氏は、タオピストのように、普通なのに、何故かうまく行く人に自分もなりたいが、(たお)の境地に至るにはどうすれば良いか。

 老荘思想に、分かりづらいところがあるのは、その境地に至る方法や修行を語ってない、としています。

 そこで、中華の禅や、日本仏教の密教や浄土真宗に付いての解説と進めています。

 ここから先は、興味のある方は、『しんめいP』氏の『教養としての東洋哲学・自分とかないから』を参照下さい。

 参考になる部分もありますが、私はここまでと同じく、共感する部分は多いのですが、結論に至ってないように思いました。

神道の(まこと)

台湾や韓国やタイ1

 そこで以上の東洋哲学と比べながら、過去の文と重なる部分があるかも知れませんが、神道の悟りをお伝えさせて頂きます。

 ここに、結論があるのだと思います。

 以前台湾に行った時、私達の十倍程(五千円弱)のお賽銭を入れ、真剣に祈る旅行案内人の信仰の(あつ)さに感銘を受けました。

 私の感覚ですが、幾つかの道教や仏教寺院を巡り、参拝者の姿勢を観ると、信仰の(あつ)い人の割合が日本より多いように思いました。

 それは、以前韓国やタイに行った時にも、同じ感覚に(とら)われたことを思い出しました。

 今の日本人の多くが社寺に訪れた時に取るある意味クールな態度でなく、良い意味で泥臭く感じました。

 熱心に祈る姿を多く見るのは、二、三十年前の日本の社寺での風景を、懐かしく思い興させるものでした。

 その熱心な案内人に聞くと、多くの台湾人は、道教や仏教寺院で願い事や祖先の幸せを熱心に祈るのだそうです。

 しかし、その案内人も信者にはなってないのは、入信すると生活規範など面倒なことが多いからだそうです。(つづく)

令和7年6月号 No.1336  2025-6
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