(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
*龍樹の空2
・この世は幻2
先月号の空を少し振り返ると、無我を解説して、空とは『この世界は言葉の魔法が生み出した幻』という捉え方をします。(ここまで)
結婚すると妻が出来、妻の父母は自分の父母になるが、演技により家族になっていても、離婚すると妻も妻の父母も消えてしまう。
血縁のある家族も、この世の全てはただ心のみであり、あたかも幻のように存在しているのが現実と捉えるのです。 例えばディズニーランドで夢を見たような気持ちになって、現実に戻ったと思っても、それは幻から幻に移動しただけ、と捉えます。
ここまでは心・精神的な受け止め方です。
次に、心だけでなく、物理的なモノさえも幻(=フィクション)という受け止め方です。
例えばコップも土から創られたものだし、都市だって、元は土であり、ゆくゆくは元の土に還るものです。
そうしたことから、物理的にも、『小さなコップから大きな都市まで、言葉と同じく土の魔法が生み出した幻』と捉えるのです。
つまり、精神的にも物理的にも、有りと有らゆる物は幻だから何もない、即ち空と捉えるのです。
・境界が無い・縁起
では全ての幻が消えたそれは、どんな境地であるか。
虚無ではなく、であり、これを縁起というのだそうです。
全部繋がっているというのは、即ち境界が無いということです。
例えば大陸や島も、海を水溜まりと考えると境界はなく、山も裾野が何処までかは確定出来ないので、全ての山々は繋がっています。
境界線は幻なのだから、富士山もエベレストもキリマンジャロも、東京もニューヨークもパリも、全て足下と言えます。
又、山と自分も、水の動きを見れば、雲から雨に変わり、山に染み込んで川になり、その水を飲む私と山に境界線は無くなります。
こうした見方をすると世界が変わる筈で、例えば自分の境界線も幻で、全部繋がっているから、孤独もフィクションとなります。
・空を悟った人の風景
龍樹の後輩チャンドラキールティが心に描く空の世界の風景は、一によって全てを見るということです。
例えばひとつの米粒があるとすると、全て繋がっているのであるから、この米粒に宇宙を見る、ということです。
一によって…とは、米粒一つに全宇宙の全てが凝縮されているということです。
龍樹は、釈迦が『世間の真理』と『究極の真理』の二つによって教えを説いた、とします。
そして、『世間の真理』である米粒と『究極の真理』が繋がっていることが縁起なのです。
この二つの視点を、同時に見るのが空を悟った人の風景というのです。
これを一即多、多即一といい、『しんめいP』的には1=無限、無限=1の感じだそうです。
また、『P』氏の空の風景は、卒業式の日の教室や恋人と別れた日の部屋や、飼い犬が死んだ日の家なのだそうです。
また、仕事仲間などと居酒屋に行ってどのグループに入れなかった時もそうで、これを『P』氏は居酒屋のブッダと呼ぶそうです。
こうした時に味わう別れや孤独は、悲しさと同時に解放感もあり、日の光や鳥の声や爽やかな朝を感じることもあるそうです。
孤立や、人間関係が崩壊した時に、全てが繋がる、そこが縁起の場所と捉えるようです。
米粒もコップも自分もみんな結局宇宙という点では一緒、という結論になるようです。
まあ、自分の不幸な境遇など、宇宙から見ると細かいことなのだから、ちまちまと悩む必要がない、ということでしょうか。
・『P』氏の今
『P』氏は龍樹に全ての悩みは存在しない!と論破された、ということです。
論破されて、空の哲学を知らなければ孤立→自己嫌悪→更に孤立という負のループから離れられないと気付いたと述懐しています。
しかし空を知り、少しマシになっても、社会復帰したわけではなく、布団に籠もったままだそうです。
しかし、そうはありながら、「それでいい」と思えるようになったそうです。
以上が『P』氏の無我と空の解説を私なりに整理したものです。
こうした捉え方で『生きづらさが少しマシ
になった(著書より抜粋)』ようです。
私が見るに、大変な進歩だと思いますし、部分的にですが共感も覚えます。
同時に、狐につままれたような、煙に巻かれたような、簡明というわりには難解な、曖昧模糊とした感じもします。
まあ、そうした感覚にどん底と感じた環境や孤独等から少しでも救われたというのなら、そうした手法もあるのかも知れません。
道教の道1
*老子と莊子1
・老子1
道は中華の道教の悟りです。
『P』氏によれば、仏教の空と道教の道とは、哲学として驚くほど似ているという事です。
それは、『P』氏の著書の監修者が、京都大学の鎌田東二名誉教授ということから、間違いないと思われます。
『この世界はフィクション』『全ての物は繋がっている』という、同じ哲学だそうです。
しかし違うのは、各々のゴールだそうです。
・仏教と道教の違い1/3
仏教は『此の世は穢土』として、穢れた・迷いから抜けられない世界だから、『此の世から解脱するのがゴール』だそうです。
それに対し道教は、『この世界を楽しむのがゴール』だそうです。
仏教の空は、仕事も恋愛もうまくいかなくても大丈夫に対し、道教の道は、これを学べば仕事も恋愛もうまくというものだそうです。
今から約2500年前、インドで釈迦が活躍していたのとほぼ同じタイミングで、中華では老子という哲学者が出現していました。
老子は無為自然というありのままでいいという生き方を説いたとのことです。 (つづく)
