(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
カルト教団とは、宗教の名を使い、その多くは教祖や、その取り巻きの私利私欲を満たそうとする団体です。
日本の統一教会だけでも、被害額は、多い年で160億円、その他の年でも10億から40・60・70億円の年もあります。
統一教会が宗教法人を取り消されたとしても、また名前を替えたり、新しいカルト宗教が出てくることでしょう。
特殊(オレオレ・警察等)詐欺は、家族や警察等の名を使い、元締めや、その取り巻きの私利私欲を満たそうとする団体です。
日本だけでも被害総額は年々増えるようで、今年1~6月で597億円を超えるそうです。
自分だけは、カルト教団や特殊詐欺にひっかからないと思っている人でも、多くの割合で欺されていると言えそうです。
カルト宗教も特殊詐欺も、変遷の歴史や手段の違いがあっても、教主や胴元は結果的に同じ穴の狢と言えそうです。
宗教の見分け方 1・一般常識から
・一般常識としての目安
しかし、そんな事を横目で見て、頭ごなしに宗教は信じられない、と思い込む人がいるのは残念です。
見分ける目というか、目安を持ってないと言えばそれまでですが、持っている人は、とても少ないと感じます。
一般常識として目安を以て、歴史の格式や建築物を判断基準にして、祈り・信仰心という本能にそって信仰する人もいることでしょう。
そこで選ぶ宗教の目安は、静かで心が落ち着く環境があれば、それで良いことでしょう。
又、そこにいる先達者としての宗教者の人格や相性を環境として、選ぶ場合もあることでしょう。
その人達は、その宗教に感謝はしても、信じるまでには至っていないかも知れませんが、それで良いのだと言えます。
しかし、本教の宗教を見分ける目安を持っていると、より自分に合う教派を見付け、又、自分で形作ることも出来ると思います。
・宗教へのバイアス
バイアスとは、偏った思い込みから判断する事です。
一つの宗教団体に確信を持って所属する人等の多くが、このバイアスに掛かっていることにお気付きでしょうか。
本教の目安について具体的にお話しする前に、ここへの気付きが大切だと思います。
一般常識の目安で、環境を主に属している人は別にして、自分の属する宗教団体の神仏や教えが一番と思う人は多いことでしょう。
どの教団でも一番と確信している人が一定数いますが、どの宗教が正しくて天国に行け、他はダメで行けないのでしょう?
その中の一つだけの教団が正しいのか、全ての確信者にバイアスが掛かっているかですが、私は、後者の方だと思います。
自分の教団だけが唯一無二と確信するのは気高く思いますが、その時点で、思い込みでないか、振り返る勇気が大切です。
しかし、信じ込んだが最後、固定観念を変えるのは至難の業です。
一般常識の視点を深めての目安
一般常識の視点を変え、少し深めての信仰への目安を一つ挙げてみます。
万歩譲って、その主祭神も教義も正統に近いとしましょう。
しかし、その主祭神だけを信奉しないと天国・極楽に行けないという教義を信じるなら、バイアスに掛かっていると言えます。
全ての人を救うという建前の宗教が、他宗派の人は救えないとなると、少なくとも世界の半数以上が救われないことになります。
殆どの宗教の目的が、全ての人の平和と安心であるとすれば、それを主宰する神仏は、名前こそ違え同じであるはずです。
多分、元戦争の神や人が頭で考えた仏であるから、同じとは言えないのだと思います。
自分の信奉する神仏は、他の宗派とは全く違い、その教えも一番優れているとの思い込みがあるのでしょう。
『鰯の頭も信心から』というのは、こうしたことではないでしょうか。
それを『幽霊の正体見たり枯れ尾花』と気付くのは、カルト宗教や特殊詐欺から目覚めるのと同じ個人差があるのでしょう、
平和と安心が宗教の目的であるとすれば、自分の信仰する神以外は異端という考え方は違いますよね、というのが目安の一つです。
信仰心を持てますか?
祈りや信仰心は、人の本能ですが、こうした目安がないことから、本能までも押しつぶす人は多いのではないでしょうか。
いかがわしい特殊詐欺の事件を横目で見ていても、誰もが持つ欲や不安をくすぐられ、つけ込まれると、欺されることがあります。
いかがわしい宗教の事件を横目で見ていても、家庭や会社の悩みや人間関係につけ込まれると、巻き込まれることがあります。
しかし、特殊詐欺に良いものはありませんが、信仰は祈りという本能の純粋な進化として、まともに伝わっているものもあります。
全て一緒くたにして、否定して捨て去るのは、心の為に大切なものを失うことで、とても残念に思います。
そうした疑心暗鬼に染まってしまうと、真面な宗教へも心を傾けることが出来ません。
繰り返しになりますが、この目安は、その宗教教義への傾きではなく、自分の居場所としての、静寂や先達の選択なのです。
まあ、小乗(上座部)仏教の自力本願ともいうべきもので、自分自身で切り開く、精神修養の場所としての選択です。
しかしこれは、大部分の人に出来ることではありません。
といって日本の大乗仏教のお題目さえ唱えれば、となると、簡易ながら、本質から離れて行くことになります。
そうした、大部分の人の一人である私たちは、信仰心が持てるのでしょうか?
宗教の見分け方 2・本教の目安
そこで、本教から説明出来る見分け方を、
先の目安に加えて、お伝えしたいと思います。
各民族が叡智を重ねた自然信仰、日本では神道は、本来単純且つ明解です。
人は生まれながらに、秩序感・正義感・自主性に加え、祈る心を持っています。
信仰について言えば、その祈る対象は、大自然なる神と、その子孫の自分への愛情がはっきりと分かる、親や先祖です。
となると、敬神尊祖の心を持ち、家族等の集団での信仰を実践して、大自然なる神や先祖に祈りを捧げることが大事です。
それを、ぶれなく伝えているかどうかが、いかがわしい宗教か、そうでないかの見分ける目というか、目安となるのです。
それさえ、きちんと行っていれば、どの宗教を信仰するのが安心かが分かってきます。
同時にそれを自分が認識すると共に行っているかが、信仰心を持てるか持てないかの、判断材料となります。
どの宗教を信じているから、正しい、正しくないというものではないのです。
本教はどうか
この先は、読者が判断する事なので、私があれこれ言う必要もないのですが、確認の意味で付け加えさせて頂きます。
本教は、他の宗教教団と同じく、宗教の三大要素と言われる、神殿と拝殿、教祖、教義を持ち合わせています。
又、此に加え、他教の多くが原始的と否定する、人類・日本民族の叡智の集積を、教義で大切に確認しています。
叡智の集積とは、各民族延いては人類が、何千年にも亘り、勧善懲悪等に思い到り、整合性を皆に共有出来るように築いた知恵です。
その内容は、神・男神と女神・生きる意義・死後の世界観(天国・黄泉・迷いの世界)・霊魂観等です。(小冊子等に詳述)
そして、本教を信じないと天国に行けないとか、地獄に墜ちるとは、考えません。
安心して生きる為の、例えば七罪・八徳やその考え方や、実践方法を伝えるのが、本教存在の趣旨と言えます。(小冊子等に詳述)
本教の教信徒でなくとも、出来れば本教の手法を活用頂き、結果的に清く正しく生きれば、誰でも天国に行けると考えます。
そして、この神の理を知り実践する人が、信仰心を持っていると言えるのです。
