御教誡十箇条(略解の詳解)57
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第七条人は怒るとも己は怒ることなかれ3
6)持つべき覚悟
怒りは本教の七罪(怠・詐(嘘)・貪・憤・慢・憂・怨)の憤ですが、他の六つと同じく、神から与えられた感情ですから意味があります。
自分の為の怒りは罪ですが、国の為・人の道の為・不義不正の為には罪とはならず、大いに憤慨して決起すべきです。
怒りの使い方が、次のように違います。
第二世大教主、故二代管長伊豆彦命も、御歌集『心の糧』に、次の歌を遺されています。
火筒もち 矛ゆく業は 知らねども
国のためには 斃れてやまず
(私は鉄砲や槍を取って戦う方法は知りませんが、世の為人の為には本教の教えを用い、心を落ち着けて戦います。
間違った教えには言葉の力を以て議論し、その結果、もし相手の暴力によって討ち死にしてもよい位の決死の心持ちで臨みます。)】
とあるのを見れば明かで、例え鉄砲や槍を持たなくても、国の為、人の為には奮起する覚悟を持っていなければなりません。
穏やかな言葉で解決するのが本旨なのです。
暴力ではなく言葉で解決するのに、自分が怒ってしまっては、目的を見失ってしまっては、元もこもありません。
7)教祖が御心を注ぐところ
私たちの教祖様がどんな場合に怒ることを抑制し、どんな場合に憤慨したかについてお話しします。
一教の教祖と仰がれる御方ですから、私事や些細なことには、どんな場面に於いても怒る事はありません。
また、どんな圧迫を受けても少しも気にされませんでした。
けれども、一旦国家の為にならないことや、人の道の為にならないということには、大変憤慨されたものです。
お話しをされる時にも、普段は声が低く物静かで、よほど耳を傾けなければ聞き取れないくらいでした。
しかし、宗教や国家のお話しになると、満面に朱を注いだように熱中されたものです。
お部屋を震動する位の大音を発されて、宗教の在り方とか国家進み方の為に御心を注がれたのでした。
8)教祖が怒るところ
・1本来の教えをねじ曲げる教義や思想
神理の道を広める為に国内を巡られた時にも、寺院の荘厳なのを見ては、憤りを感じられたようです。
(筆者付記
それは、見た目で人の関心を引き、或いは畏怖させて、人の根本である神と祖先の繋がりを大切にする教義の無い教えが栄える現実です。
又、目先の心の糧として、キリスト教の愛や仏教の慈悲や儒教の孝行等、枝葉末節の教えはあっても、根本との繋がりがないことです。
枝葉末節の教えも大切ですが、それが根本と繋がってないのに、根本の教えと思い違え、心
を奪われる人の多い現実です。
根本の教えとは、日本民族延いては人類の叡智の集積である“敬神尊祖”です。
敬神尊祖が根本であることで、愛や慈悲や孝行が、意義を持つのだと言えますが、皆これを否定して、末節のみで導こうとしています。
全ての宗教の目的は、愛や慈悲や孝行と別れるのではなく、愛も慈悲も孝行やその他平和等、善い心掛けである筈です。
目的は同じであるし、そうなれば名前は違えど神仏は同根である筈なのに、うちは愛等とか、うちの神仏は他と違うと主張しています。
そして、それらの宗教家が、それに気付くか気付かないまま、その宗教を押しつけ、それに納得する人々がいる現実が今も存在します。
教祖はそうした現実に憤りを感じられたのだと思われます。)
又、神社の退廃を見ては、本津教・自然の教えである、神の道を忘れた人の多い事に嘆かれました。
そして、幸徳秋水のような者には憤られました。
:注幸徳秋水=無政府主義者・明治4(1871)~44(1911)年、満39歳にて刑死。
(筆者付記
それは、国民の心の繋がりの中心となる天皇家や、国民の不安を除く為の秩序を守る政府の“必要性を認めない思想についてです。)
又、迷信の為に家財を失い、家の存続が出来なくなり、延いては国体を傷つける悪人がいることに憤られました。
それらの悪事は、日本に受け継がれた、素朴で純粋な精神までもねじ曲げてしまうと、憤慨されたのです。
こうしたことについて、大いに怒られたのです。
・2結果的に現在を大切にしない教え
仏教というものが渡ってきたために、切っても切れない神と人との間隔を遠ざける、ということになりました。
また、今生きている現在は穢土であるとつまらないものとし、来世こそが大切なのだと声を張り上げてきました。
その為に、その言葉通りを受け取り、人の命の価値を低く思わせ、人の命を粗末にしてきた例は、少なくありません。
(筆者付記
念仏さえ唱えれば、死ねば極楽に行けるという指針は、分かり易いことには間違いありませんが、曲解も招きやすくなります。
仏教主導の一揆等は、「死ねば極楽ぞ!」とイスラム教の聖戦や自爆テロの掛け声と変わりません。
こうした教えが命を粗末にする論拠になって、大切な神から戴いた自分や他人の命が、戦争や工事で軽く扱われる結果となりました。)
・3生への意識を卑しむ教え
又、老いや病や死という恐怖から逃れる為には、初めから生というものが無ければ良いとする考えもあったようです。
そこで、生=産むの象徴である女性を卑しいものとして人間の種としての活動を止めようとする考えを持つようです。
その一方では、殺生を禁じて人に動物や虫や魚の肉を食べさせないようにし、本来人が摂取すべき栄養を妨げています。
(筆者付記 ←↓筆者付記・注は、字小・行間細め
・4生・老・病・死
時折触れますが、仏教は生・老・病・死を併せて四苦と呼ぶようですが、本教ではそう捉えません。
生(いきる)の本言(=その言葉の持つ本来の意味)は、“息・入る“で神の分霊(ぶんれい)を戴く有り難いことです。
老(おいる)の本言は、“負う”で、年相応の経験からの責任を負い、生きがいを持って生きるという、前向きな心です。
病(やむ)の本言は、“止む”で、神祖からの徳が止まるのですが、その事実を通して、考え違えの忠告を戴いていると有り難く考えます。
死(し)の本言は、“風霊・去る”で、寂しいけれど神の世界に帰る有り難い事でもあります。
・5殺生禁止の理由
仏教やその源流と言われるヒンズー教が殺生を禁じるのは、七道輪廻という生まれ替わりの教えからのようです。
もし亡くなった父母や祖先がその生き物だったら、親や祖先を食べてしまう事になるから、という真面目?な発想からのようです。
又、菜食が許可されるのは、植物には生まれ変わらないから?だそうです。
七道輪廻は、インド民族の叡智の集積でしょうが、生まれ変われば祖先がいなくなることをどう受け止めるのか、興味があります。
仏教は宗派により、七道輪廻や自然信仰の天国と黄泉を転用した、極楽・地獄の受け止め方に違いがあるようです。
因みにユダヤ・キリスト・イスラム等の一神教は、はっきりと祖先崇拝をせず、この辺りが自然教である神道との違いの始まりです。
・6神に与えられた自然な生き方
人を含む全ての生き物の殆どは、他の生き物の命を戴いくと言う生き方を、自然なる神から与えられています。
食べる対象が動物は悪く植物は善い、という考え方をしません。
勿論、必要以上の殺生や無駄遣いは罪ですが、生きる為に必要な殺生を否定することは、神の心を否定すると同じだと考えます。)
ですから、この仏教という教えが伝わった国は、全て体力が落ち、国力が弱まり、人間の数が減り、人の命も短いものとなりました。
御教祖は、正に仏教が、天即ち親神の御心・意思に適わない教えであることを例や証拠をあげ指摘しています。
人が本来の生活行えるように、根本の教えと繋がりを否定する教えに犯されようとすることに怒られているのです。 (つづく)
