(おのず)(から)(みち) 404 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()やすいと朽ちにくい

           (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

朽ちない物

 ()ちるとは、木などが(くさ)って形が(くず)れる、役に立たなくなる、又、転じて名声などがすたれる、むなしく終わることをいうようです。

 近くを見ると、年輪を重ねた木も、力の強い動物も、立派で健康な人間も、寿命があります。

 無酸素でもすぐには死なないと言われるクマムシも、不老と言われるクラゲの仲間も環境の変化には耐えられず、限りがあります。

 遠くを見ると、地球や太陽系や銀河系でも寿命があると聞くと、朽ちない物など無いのではと思います。

 まあ、全てを含む大宇宙には、朽ちない意思のようなものがあるのかも知れません。

 それらを考えると、朽ちやすい朽ちにくいの分類の方が現実的かも知れません。

物質と精神・心

 例えば鉄とステンレスを比べれば、()びにくい後者の方が朽ちにくいでしょうし、そう

した物質は幾つも開発されています。

 しかし、物質と精神・心を比べれば心の方が、組織や家族に受け継がれて行くと朽ちにくいと言えそうです。

精神・心の目的・意義

 その心も、例えば食欲や性欲や物欲は生きる為に必要ですが、死ねば暑い寒いの感覚と共に不要になり朽ちる事になります。

 しかし、子孫への愛情は、先祖から私達、私達から子孫へと受け継がれることを考えれば、より朽ちにくいと言えそうです。

 又、生々化々の社会的進化への意欲などは、朽ちにくいと言うより、益々盛んになると言えます。精神・心もその目的・意義により、要・不要により、朽ちやすい物と朽ちにくい物に分かれるようです。

願いと祈り

 願いには、自他の健康や安全、金品や地位、学歴や愛情等の夢や実現した組織の充実という身近なものがあります。

 又、世界平和や社会の発展・幸福という、遠く広いものもあります。

 願いは、(かな)えば不要になりますが、後者の方がその成就の継続が本筋ですから朽ちにくいと言えます。

 願いは、誰に願うのかの対象が、不特定ですが、祈り願いと目的は同じでも、祈る対象が基本的に神です。それは私達人間の持つ本能であるから、より朽ちにくいと言えます。

 祈りは、叶って終わりではなく、ずっと継続されるものでもあります。

 人の本能である祈りは、自分で限界を定めたり罪に触れたりしない限り純粋であり、朽ちにくいものです。

朽ちやすい信仰と朽ちにくい信仰

 無信仰を自慢、或は信仰を軽視する人がいますが、祈りは人としての本能・基本ですから、よくご自身を振り返って頂きたいものです。

 祈りを社会で共有する信仰は、権力に溺れる独裁者が出ない限り、朽ちにくい物です。

 信仰も神社・寺院・教会・道祖神等、対象が多様でも、人類共通の精神文化です。

 そうした信仰習慣は、人は本来個人主義者ではないので、世界中の村落・民族で受け入れられてきたものです。

 宗教に(しょう)()する前の状態とも言えますが、そこに人間の不純な意図や欲への(むさぼ)りが入ると、天造の習慣も人造と化してしまいます。

 宗教に昇華して対象が絞られた信仰も一般信仰と同じく、朽ちにくい物と言えます。

 対象が一つでも多様でも朽ちにくいのですが、そこに独裁者の(むさぼ)り等が入ると朽ちやすい信仰となってしまいます。

朽ちやすい宗教と朽ちにくい宗教

 一定の教義と教祖と組織を持った宗教は、社会や民族を超越する部分で、理性的で良いように感じます。

 しかし、祈りと信仰を(ほう)(かつ)しつつも腐敗する事が往々にしてあります。

 一つ目の理由は、人間本来の弱さで、個人も組織も権力に溺れ、それを利しての諸欲の貪りに(おちい)ることです。

 本教は欲も神から頂いた大切な感情ですから否定しません。

 しかしそれを必要以上に依存症のように得ようとするのが、貪りという罪になり心を(おお)い、神祖との関わりを閉ざすのです。

 二つ目の理由は、人造教の構造的な欠陥で人類の叡智の信仰を否定し、一人或は少数の教祖が創造した故に進化が出来ないことです。

 例えは悪いのですが、暴力団の親分が黒といったら、本当は白くとも黒です、と言わなければならないのと同じです。

 一旦教祖を()(へん)で絶対の存在と決めつけてしまうと、それを正当化する為にこじつける、という本末転倒に陥ってしまいます。

 人を救うための教義が、教義を正当化する為にごまかしや嘘に染まってゆくのです。

 また、組織の維持や拡大への欲、他教との比較や競争など、()(きん)な感情に(とら)われ、戦争の原因にさえなってしまうことです。

 そこで、その原点である純粋な祈りや信仰を忘れてしまうのです。

 人造宗教の多くは、人類・民族が(つちか)ってきた純粋な祈り・信仰を、自分達の宗教への忠誠心のようにはき違えてしまいます。そして、信者を(れい)(ぞく)するもののように思い誤るのです。

 根拠も無い優越性を()()する余り、宗教が(おこ)る以前の祈りや歴史を持つ信仰を否定する内に、(おご)(たかぶ)りという罪に染まります。

 その結果、神祖との関係が薄れ、腐敗が始まるのです。

 本教は組織の永続や勢力の拡大を目指すのではなく、自身の心の有り様を整えるものですから、他教との争う必要もありません。

 本教が及ばない場所で、他教に()やされた人も、数え切れないほどいるのですから。

本教は朽ちるか

 では本教は朽ちない・腐敗しないかというとそんな事はありません。

 前小見出しの一つ目の理由のような人間本来の弱さには、私たち普通の人に(あらが)いようが有りません。しかし、それを教えにより克服するのが日常(=本来)の心掛けです。

 天造教・古神道である本教は、この純粋な原点である祈りや信仰が常に基本です。

 そして叡智を積み上げて来たように、本教という一つの集大成を元に、時代に対応する古くて新しい宗教で有り続けるべきなのです。

 天造の教えとして世に役立つための教えの永続を目指す事で朽ちなくなる、と言えます。

令和6年8月号 No.1326  2024-8

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