(おのず)(から)(みち) 402 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

神道の悟り(気付き)の一つ

    (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

春季大祭でのお話し

 4月20()21()日の独立130周年・教祖ご生誕190周年の式年大祭は、教祖墓前祭は雨がちで(よう)(はい)となりました。しかし、一日目の造化宮と改装が成った大元稲荷神社は、お山で祭事を行うことが出来ました。

 ここでは、二日目の本殿祭に用いた教歌のお(とり)()ぎと共に、本殿祭でのお話しを、少し整理してご紹介させて頂きます。

・神に対して不敬な歌?上の句

 我が心 (すなわ)ち神の 心なり

  この神の身を 救い助けよ (人道百首)

 教祖()(うた)(かみ)()に『我が心 即ち神の 心なり』とあります。

 自分の心は神の心と同じ等とは不敬ではないか、と心配する向きもある事でしょう。

 しかし、心配は要りません。

 他教の教えのように、人は神が泥から創り出した物では無く、神の魂を分け頂いた神の子孫と考える処に神道の真骨頂があるのです。

 大祭では、神道の葬儀や(みたま)(まつり)(れいさい)で奏上する祝詞の内容に少し触れました。

 小児の内に亡くなった魂は、未だ功績もあげてないけれど、何の悪い事もしていません。

 ということは、清らかな神の心の(まま)なのですから、あなたは迷いや地獄ではなく、神の世界に帰り戻るのに、何の疑いもありません。

 だから、あなたもあなたの家族も安心して良いのですよ、という趣旨です。

 私達大人は生きる知恵を付けると同時に、バイアスという思い込みや(へん)(けん)等の罪にも染まっているということの裏返しです。

・神に対して不敬な歌?下の句

 (しも)()に『この神の身を 救い助けよ』とあります。

 神に対して要求するような言葉は不敬ではないか、と心配する向きもある事でしょう。

 しかし、これも心配は要りません。

(ほん)(きょう)(とな)え言葉

 本教では、先ず『(わが)(こころ)(すが)(すが)し』の言葉を唱え、その()(りき)(ほん)(がん)とも言える(こと)(だま)の力で、自分の心や周囲を清めます。

 次に(;注)()()(しょ)(さい)の最初から18柱までの神を総称して本教の(しゅ)(さい)(じん)(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(まも)(たま)(さちわ)(たま)へ』を()(りき)(ほん)(がん)のように唱えます。

:注記紀=古事記と日本書紀の事

 一般の神社の(ほとん)どは、この大元の(あま)()(かみ)を素通りして唱えません。

 主祭神をその神社の祭神として、何の御祈願でも一緒くたにして、その神社の祭神に願うところが多いようです。

 本教では天在諸神の後に、“例えば”残り全ての(いわ)(ゆる)()()(よろづ)(のかみ)を総称して本教の(はい)()(じん)(あわせ)(なつる)(もろもろ)(のかみ)(まも)(たま)(さちわ)(たま)へ』を唱えます。

 ここで“例えば”と書いたのは、実際の祭事では、配祀諸神の中でも具体的に、お働きになる神名をお唱えするからです。

 例えば病気平癒の祈願であれば、(おお)(くに)(ぬしの)(かみ)(すくな)(ひこ)(なの)(かみ)・医師でもあった教祖神、学問であれば(おもい)(かねの)(かみ)・国学者でもあった教祖神です。

 その他、商売繁盛であれば大元稲荷大神、交通安全であれば(さる)()(ひこの)(かみ)等、(もっ)()()(ごん)(すい)それぞれの神名は願い事により()()(わた)ります。

・他教の(とな)え言葉の意味

 例えばキリスト教は、神と契約を交わすという意味の『アーメン』と唱えます。

 仏教は、その信仰に()()(=入ります)という意味の『()()…』と唱えます。

 宗派によって…の部分が『()()()(ぶつ)』や『(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)』等と変わるようです。

・本教・神道一般と他教の違いの一つ

 本教と他教の違いは、ここにも見られます。

 他教は、神と契約、或いは入信しなければ救われないし、天国・極楽にも行けません。

 教団にもよるようですが、多くの他教は入信しないと地獄に行くと(おど)すようです。

 それに比べ、本教や多くの神社や神道教派は、その教団に入らないと、天国に行けないとか、地獄に行くとか考えません。

 清く正しく生きれば、民族・思想・宗教を越えて誰でも神の世界へ帰れると考えます。

 そして、太古から受け継がれた清く正しく美しい生き方を思い出して頂くよう、具体的に伝える事が出来るのが本教です。

 例えば、七罪・八徳を見極める幸福への道程等、多くの引き出しとその中身があるのです。

・本教の(とな)え言葉の意味

 他教に比べ、その神仏に全面降伏・隷属するように契約・帰依するのではなく、言葉の通り、

「神様!力を下さい・お助け下さい・願いを(かな)えて下さい」と堂々と要求しているのです。

 それが決して失礼で無い根拠を二つほどあげると、

 一つは、神は親や先祖の大元ですから、親が子どもを大切にするのは当然で、子も又親に孝行を尽くすのは当然と考えるのです。

 神が人を守り助けるのは当然で、人も神の意志である此の世を神代のようにする事に尽くすのは孝行と同じ事だと考えます。

 これは共同体で生きる為に身につけると共に自然と悟った日本民族・延いては人類の叡智、即ち天造教と言えます。

 人造教は、神仏の恩恵を押しつけて、入教を強要しようとするところに違いがあります。

 二つは、神と人は先祖・親子と同じですから、同じ目的を持つと考えます。

 即ち、私達の共同体をより、楽しく豊かに住みやすくして、此の世を神代のようにしよう、とするものです。

 それは、神の心を実現するための活動ですから、私達は可能な限り働きます。

 だから、その為の健康や、自分だけでなく、全ての人の幸福の為の力を下さい、と正々堂々と願うと考えるのです。

 この感覚は、決して不敬などで無く、神様への親しみの表出とも言えます。

神道の悟り(気付き)の一つ

 そこで、本殿祭での締めのお話しで、

1.私達は、神の分霊を戴いた神の子孫と考えるから、赤子の時は生きる術は身につけてないけれど、神と同質である。

2.しかし、私達は、生きる知恵と共にバイアス・罪を(まと)っていることに気付きにくい。

3.そこで、本質は神と同質である私達も、今何かのバイアス・罪に取り憑かれている事に気付くのが一つの悟りである。

4.ならばそのバイアス・罪が何かと、信頼する人や周囲との関わりの中で、自身の振り返りの心掛けが大切になる。

5.そうして、気付いたバイアス・罪を、大きい順に少しでも改善し、祓うことで、神の心に近づく事が出来るのだと言えます。

 神の心に近づく人が一人でも増えることで世は神代に近づくのですから、そうした気持ちで、共に前に進んで行きましょう!

令和6年6月号 No.1324  2024-6

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