(おのず)(から)(みち) 400 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

無神論・人とAIの感性と知性

           (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 本稿もお陰で四百回目となりました。

 朝拝等での神示と思われる割合が増え、それが正しく伝わればと願う所です。

無神論と有神論

・他人の目

 先月までの本来の宗教・哲学に関連して、時折触れる話ながら、有神・無神論者に対してこんな視点もあるかなと記してみます。

 現代は、善悪は別にして古い社会慣習から解き放たれた部分もあり、以前に比べ自由に神仏への観点が持たれます。しかし、

 自由になるのは良いようで、そこで又新たな(へん)(けん)・バイアスに取り()かれがちです。

 日本は、集団護送方式社会として時代を重ねて来ましたが、世界の他地域でも現代は次の二つに別れつつあるように感じます。

 信仰を偏見と捉えるグループと、信仰をアイデンティティ(自分が自分であること・他者や社会から認知)と捉えるグループです。

 近年は前者が増えつつあるようですが、その中で信仰を持つのが恥ずかしいと感じる人達が、無神論を(ひょう)(ぼう)しているように感じます。

 祈りとか信仰を偏見・バイアスと見る社会風潮から、変人と見られるのが恥ずかしいと感じることがあるのでしょう。

 自分はこの二つのどちらにも属さないと思っていても、どちらの目を気にしているかを振りかえれば、自分の所属が分かるはずです。

 勿論、逆に後者のグループに属している人も、信仰を持ってないと恥ずかしく思うのでしょうが、それもどうかと思います。

 双方から変人と見られるのが恥ずかしいとこと自体、既に偏見・バイアスに取り憑かれているのではないでしょうか。

・自分の目

 他人の目を気にせず自分で考えて決めるのが、本来の姿です。

 その本来の姿も見る人によれば変人かも知れませんが、自然に自分で考えている人はごく少数と言えそうです。

 そこで、素直に(かえり)みた時、例えば祈り誰でも経験した本能と気付くことでしょう。

 いつから恥ずかしいとか、嫌悪感が出てきたのでしょう。

 そして信仰、不謹慎に思われるかも知れませんが、始めはその場の人等との神社仏閣への敬意の共有程度ではないでしょうか。

 入信する程の信仰心は、もっと先の方にあるのですから、何かにに(とら)われるという不安を抱く必要は無いように思います。

 こうしたことを考え合わせ、他人の目など気にせず自分の本性を見つめないと、(うわ)()だけの人生を過ごすことになります。

 神仏など目に見えないものは信じないと言う考え方と、知恵と同時に身に付く偏見・バイアスとを公平に自分で見比べるべきです。

 目に見えない他人からの好意や悪意を感じたことや、人生を通じて願いを祈りとしたことが無い人は、ごく少数だと思います。

 非認知能力という言葉が、近年教育界で使われ始めましたが、現代人は衰えているのかも知れません。

 しかし、虐待家庭でも無い限り、素直になれば、親の愛情は感じられるはずです。

・反抗期

 私は、無神論は私達の親へと同じく、その大元の神への反抗期ように感じます。

 親の愛情は見えませんから、大抵の人は反抗期を経るのが返って健全とも言われます。

 神道での神は、親・祖先と(さかのぼ)った大自然ですから、無神論は私も経験しましたが、心の成長の過程として、健全とも言えそうです。

 しかし、世の中には親に反抗したまま人生を過ごす人がいるように、無神論者のままで終わる人もいるのは、残念なことです。

 実は、神祖も親もご自分の心も、世に役立つという同じ方向を向いていることに気付けば、反抗期を卒業することができます。

 まあ、私を含めての大半の卒業者は、はっきりと気付かないまま、親の老化等で、漠然と反抗心の解消に至る事が多いのでしょう。

 親子が食い違うのは、本質ではなく、それに向かう方法論なのです。

 しかし、ボタンの掛け違いで、本当は同方向なのに真反対の考え方をしていると、得てして互いに勘違いをしてしまうのです。

 まあ、それでも親子ですから、勘違いをしたまま、あきらめ加減に仲直りをする時もあります。また、神祖・親子の本質を理解して共に同じ方向を目指す場合もあります。

 そうした道理の上に立ち、冷静に自分を見つめることが出来れば、無神論への矛盾の気付きは目の前です。

 神祖は親と同じなのですから

 神を視覚に捉えたり、交接したりした経験も無い私も、無神論者ではありません。

 父母や祖父母・延いてはご先祖の、目には見えない心の目的が、感じられるからです。

 日本や他民族が取捨選択を経て積み上げた、類似性の高い精神文化を、神の意志として信じるに足りると判断するからです。

人とAIの感性と知性(理性)の関係

・感性と知性(理性)の関係

 先月号に最低限の理性”と記しましたが、感性と知性(理性)の関係はどう捉えるものでしょうか。

 宗教・哲学や修行の本質や有神・無神論の考え方の仮定・アイデア・気付きは、先ず感性から発するものだと思います。

 知性は、仮定等を補完・発展させ、世に役立てる為だと言えそうです。人生の要点は先達者から学ぶ方が数倍早いものの、それで全てが手に入るわけではありません。

 先達者から学びつつ、自分なりのアイデアを感性によって仮定し、それを知性によって補完して行く独自の自主性も大切です。

AIへの提言

 (しろ)(うと)感覚ながら、AIに感性を持たせることが出来れば、悪質AIとのいたちごっこが消滅し、AIへの信頼が回復すると思われます。

 AIによる人間支配への心配が消え、共存が出来るのではないでしょうか。

 基本道徳に合致するか見分けることが出来るだけで十分であり、そこに例えば本教の(しち)(ざい)(はっ)(とく)の教えが寄与出来るように思うのです。

 世界が一定の法則で動いているのならば、メーテルリンクの童話『青い鳥』のように、幸せという神はいつも私達の(そば)にあるのです。

 神に通じる人間の善意も、AIと共有できれば、より効果的に善意の輪を広げられると信じます。

令和6年4月号 No.1322  2024-4

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