(おのず)(から)(みち) 399 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

本来の宗教・哲学2

           (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 先月の題を本来の宗教・哲学1に変えます。

神道は宗教か?

 先月、敬神尊祖の本質を知り日常に活かせば、()()や契約や入教せずとも、誰でも地獄など行くことはない、とお伝えしました。

 神道は民族や宗教を越え、全ての人が悟り・救いの対象であり、死後だけで無く、現実の世界での天国を味わえるべきと考えます。

 人の心身を支える本来の宗教・哲学は、大部分の人に理解出来る簡易な教えの(はず)です。

 宗教の基本を備えながら、()()や契約の必要の無い神道は、宗教で無いとも言えます。

 神社や本教は、安らぎを提供し、生死を超えた天国、(すなわ)ち安心の手法を伝える、入門せずとも出入自由な場だからです。

 言語と同じく、自然の摂理・即ち神の意志を民族の叡智として伝える、普遍の教えを無償で伝える場でもあるからです。

 現代、忘れ去られようとする敬神尊祖の本

質を保持し、その手法を伝えるのが本教の役割だと自負します。

世界宗教が成立する前の人類は不幸か?

 後に述べる世界宗教は、是等の叡智を利用して、例えば地獄に永遠に行く等と付け加え、入教への脅しに使ったように思われます。

 そして、そうこじつけるために、人を(けむ)()くような(はん)()な教学を構築したのだと考えます。

 日本の場合、西暦513年に儒教・続いて道教・538年に仏教、1549年にキリスト教が伝来したと伝えられます。

 是等の教えが伝わる前の日本人、或いは世界の人々は、不安で精神的な知識にも無明で不幸だったのでしょうか。

 私は、日本では神道、世界では自然教とも言える敬神尊祖が機能していた時、精神文化は充実し幸福であったのだと思います。

 全世界の各民族に敬神尊祖を元とした同じ様な神話があるのを見ても、皆豊かな精神文化を(きょう)(じゅ)していたのだと考えます。

 しかし、多分(きら)びやかな物質文明を伴う世界宗教に目を奪われ、無用な欲が出てしまったのではないでしょうか。

 また、高度な文明を伴う宗教は、高度な精神文化を持つと、思い違えたのだと考えます。

 無用な欲、必要以上の財産・食事・性・環境等を得ようとするのは、現代の私達も同じです。

 カルト宗教に()まるのは、過去も現在も同じで、敬神尊祖の基本を忘れる時、(めん)(えき)(りょく)(げん)じるからだと考えます。

神道に修行は必要か?

 他教の教祖と言われる人は、死の境を(さま)()うような厳しい修行から、神仏を見出す人が多いようです。

 又、家族・親族や自分が死の(やまい)に取り()かれ、極貧の生活を修行のようにして、神仏を見出した教祖も多いようです。

 本教の教祖は、七十数代の教統を受け継ぎながら、庄屋や村長を務める家に生まれ、学問や医師の体験を経て、神告を受けます。

 修行について『難行苦行は無用である』と教えていますが、それは何故なのでしょう。

 一つは、他教の教祖のように、時間や場を()いて自分を死の淵に追い込むような修行は誰にでも出来る事ではありません。

 また、不幸のどん底になることも同じですし、誰もが悟りを開くことは出来ませんし、その全てが真実かの確認も出来ません。

 それは、それらの教団は皆、自分の教えこそ正統だと主張しているからでもあります。

 どの教えにも正統な部分があるのでしょうが、主祭神や教祖を絶対視してしまうと、次のような不都合が予想されます。

 民族・人類の叡智として形成された(てん)(ぞう)から、一人或いは少数の教団枢要者が創造し硬直化した(じん)(ぞう)の教えとなってしまいます。

 それらに比して神道は、古くて新しい(せい)(せい)()()の教えです。

 厳しい修行や、不幸のどん底にならずとも、誰もが神仏を見出し、神の(ことわり)や人生哲学が理解出来る筈です。

 最低限の理性と、先人の知恵を生かす謙虚さの中にこそ、幸せへの道が開けるのです。

 二つは、目的を持って祈ることは、結果的に奉仕や修行となっている、ということです。

 本院や教会の各種祭事に参拝するのは、例えば商売繁盛の大元稲荷やお礼と幸運を祈っての大祭や月次祭等があります。

 しかし、そうした神徳を願い祈ると同時に、神徳を戴きながら、神殿を言霊で祓うことで、神徳の通り道を広げ清めているのです。

 そう考えると、私達の参拝は同時に神徳の通り道を広げ清める奉仕をすることで、結果的に修行をしたことにもなるのです。

 私が近年毎年夏に行う世界平和祈祷も同じ事で、造化宮に(こも)るのは修行が目的ではなく、単純に世界平和を祈っているのです。

 目的の為に祈りの境地に入るのが、結果的に修行をしたことにもなるのだと考えます。

 働くの(ほん)(げん)(はた)(らく)で、自分や家族の為に稼ぐ仕事はどれも貴賤無く、同時に世に役立ち社会奉仕と修行にもなっているのと同じです。

 修行した人にお金を払えば神徳を頂けるのではなく、自分で努力を楽しめれば、神徳や金品や修行は後からついてくるものなのです。

 三つは、修行は、生活を幸せに保ち続けて行く、苦労と喜びの課程にこそあるという、誰にでも出来る考え方です。

 境内の学校法人は高学歴や高収入を得る学校や会社に入ることよりも、幸せな家庭が作れる人作りを目的とします。

 夢中・無心で遊べる積み木等の知的遊びや、運動場の遊具という環境が、知能や体力や情緒を育てるという結果を生むのと同じです。

 子どもも大人も、遊びや仕事に夢中になって楽しめることが、結果的に成長や奉仕・修行になっていることを確認したいものです。

 大変な仕事も効率や楽しみに工夫をして、世に役立つ奉仕を意識出来れば、一層の充実を得ることが出来、それが修行とも言えます。

 もし厳しい現実や困難があっても、祈りと共に、前向きに取り組むことが、自分の成長への修行になっているのです。

 厳しい修行が不要と教祖が伝えるのは、修行は目的ではなく、毎日を真摯に生きることが修行であり、悟りに繋がるという教えです。

                 (続く)

令和6年3月号 No.1321  2024-3

戻る