八徳の施捨と風度
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
秋季式年大祭
10月19・20日の、独立百三十・教祖御生誕百九十周年の式年大祭は、皆さま方の物心両面のご奉仕のお陰で、無事に執行出来ました。
19日は大雨で造化・大元は遙拝でしたが、20日は打って変わっての晴天で、福岡教友会の教祖墓前祭も盛大に取り行われました。
本殿祭での資料に、民族・政治・宗教さえ越えて、誰でも得られる、幸福への四段階の道程をお付けしました。
1.整理された七つの罪に触れないように気を付け、2.不意(知らずに)触れた罪は気付いたものもあわせて祓います。
3.神の気を長呼吸法にて戴き、4.これも整理された八つの徳を積む、というものです。
普段からここに意を置いて過ごせば、願い事や特別のお祓いなど、行う必要がほぼ無くなるという、人間本来の自然の道です。
太くて広い、神への真っ直ぐで簡易な近道ですが、その一つ一つには、深い意味があり、それを理解する、ともっと前へ進めます。
施捨
今月は以前ここでお取り次ぎしたのとは別の角度から、八つの徳の一つ、施捨についてお話ししたいと思います。
施捨は、災害地域や貧窮の人に寄付や施しをしたり、神社仏閣に寄進をしたりするという、金品の施捨とは違う方法もあるのです。
拙小冊子『神道の悟り』の12ページに、施捨について@〜Fまであげたものを、もう少し深めてみたいと思います。
本教のものではありませんが、分かり易く具体的に感じたのでお取り次ぎします。
先ずは、@目の施捨=心を清らかに、穏やかな目つきで接する、と、A笑顔の施捨=和やかに接する、です。
不満や怒りの感情が無い時でも、顔つきや目つきが穏やかで無い時は、言葉は冷たいものになり、相手の心を固めてしまいます。
瞞してはいけないと教えられた私達日本人も現代では、欺されてはいけない、軽くみられないようにと顔を強張らせがちです。
10月号で紹介した『捨ててこそ』は、佐伯泰英氏の剣豪小説から抜粋したものです。
恐れずに対戦者の刃の下に入り込む心持ちが、自分の道を開くという悟りの一つです。
@もAもそうした悟りの応用で、もし相手様が悪意を持っていても、それを包み込むような心持ちです。
心を清らかにして、笑顔と共に穏やかな目つきを意識すると、口からは恐れや蔑みや警
戒や冷たく非情な言葉は出てきません。
もし、腹に据えかねる事があっても、この
二つを意識していると、ある程度は自分の心の中で整理することが出来ます。
一テンポ間を取ることで、いきなりの怒りの感情や怒声で相手様が心を固める前に、こちらの意を冷静に伝えられます。
そうなると、相手様の心も和らぐことでしょう。
次に、B言葉の施捨=生きる意欲や勇気や希望を持てる言葉で接する、と、C真心の施捨=誠心誠意で接する、です。
つい口から出る愚痴や悪口は、その言霊が自他の気分を滅入らせ、嘘や誤魔化しは、最初は気付かれずとも、信用を失います。
その反対に、明るく力強い言葉は、その言霊が自他の心を明るくし、誠意は信頼を獲得すると共に、心地よい安心感をもたらします。
次に、D労働による施捨=弱者に力を貸すように接し、自分の仕事が何であれ世の為人の為になっていることを意識して働く、です。
八徳には労役として表記されています。
労働を自分や家族の為としか思えないと、仕事に意義を見いだせず、楽に走り品質が落ち、他に迷惑となることがあります。
働く=傍の人、延いては社会を楽にする、という本言(=その言葉の持つ本来の意味)を理解すると、これも施捨である事に気付きます。
自分達の為だけでないことに気付けば、仕事に工夫が加えられ、楽しむと共に社会に役立つ充実感が得られます。
労働によって収入を戴くと同時に、社会に施捨をしているのです。
次に、E席を譲る施捨=乗り物だけでなく、周囲の人にとって良いと思われる立場を譲ってあげる、です。
居場所であれば、例えば、より居心地が良く、景色が良い場所などです。
料理やデザートなどであれば、先に取って頂くように促したり、良い方を装って差し上げたりするなどです。
また、競争の原理の作用する仕事など、もし勝っても、相手様の顔を潰さぬように気を付け、分けられるものは分かち合うなどです。
相手様に対し、少しでも居心地の悪さを取り除き、心地よさを心がける事は、きっといつか自分に帰って来るものです。
最後に、F住まいによる施捨=どんなに粗末な家に住んでいても、粗末な衣服を纏おうと
心と共に清潔を保つ、です。
本教の教祖は、寝る間も惜しんで著作活動をされますが、粗末な住まいですから、冬など窓の隙間から雪が降り込んだようです。
疲れて座ったまま眠る肩に薄く雪が積もる姿を見られることもあったようですが、そうして教えを分かり易く書き記されたのです。
また、江戸時代は小笠原藩から、明治に入っては国からの免状を頂いた医師ですから、清潔は基本であったと思われます。
しかし、全国布教の際は元より、宮様方や政府枢要者に会われる時にも、羽織は着ても粗末な形でした。
それでも、誰も快く接してくれたということは、見た目は粗末でも、心と衣服の清潔を感じたからだと思われます。
住まいや身形が粗末でも、精神的・物理的な清潔さを感じれば、嫌悪されたり卑しまれたりすることなく、相手様を安心に導くのです。
これも施捨の一つと言えます。
風度
本教の副総監を務められた、名古屋大教会の故横江春太郎先生が、本教の百年を考える会で風度という言葉を使っておられました。
風度のある人の傍にいると、金品を下さるわけではないけれど、何か得をした気になる、ということです。
そう考えると、風度のある人は、上の@〜Fの形で、目に見える部分と見えない部分からの施捨を行っているということになります。
そういう人に、お互いなりたいものですし、そうした人が増えれば、此の世は自然神の世に近づくことでしょう。
戦争や迫害も、きっと自然雲散することでしょう。
皆様、来年も良い年をお迎え下さるよう、御祈り申し上げます。