(おのず)(から)(みち) 388 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

見えない神への信仰?

           (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

神と交感が出来る人・時代

 弥生時代までの日本人の大部分、又平安時代は、(おん)(みょう)()や神官の大部分が神や祖先と交感が出来ていたと、聞いたことがあります。

 その後も比率は下がり続け、現代は一万人に一人という説もあるそうです。

 是等の根拠は分かりませんが、そんなものかなとも思います。

 感じると言っても、個人により強弱もあり、その内容も過去や未来、家族や社会での人間関係や病気の原因や解決法等、様々です。

 親はその強い愛情により子どもの嘘を見抜きますし、教師もその熱情により、顔色から家の事情等に気付くことは往々のようです。

 神との交感もその延長かと感じますが、本教にはその力のとても強い教師も居られます。

 私や家族も、自分でも気付かなかった病気の部所や、悩み等を言い当てられて驚いた事が何度もあります。

 私自身もそうした力を持つ方に、十数年ほど前に五十歳代で、神のお知らせを頂けるようになると言われたことがあります。

 残念ながら先に挙げたような能力は感じませんが、文章が不得意だった私がこの稿(こう)400号近く続けられたのはそれかなと思います。

 内容も、多くは神前に居る時に暗示されるものを、文章にしたものです。

 次のようなメモや、アイフォンに書き込んだメモを文章にします。














 もし本稿や教書から読者の皆様が気付きや共感を得られるのなら、こうした形で御神霊との交感を戴いたのかな、とも思います。

 受け止め方は皆違い漠然と感じる方もおられるでしょうし、手前味噌ながらこれをHPで見て、本教に(しゅう)()を替えた方も居られました。

不確定なものの(とら)え方

 このように、人により、又その時の肉体・精神年齢や立場等の環境により、神や祖先への捉え方は、一人の人としても(さま)(ざま)です。

 全く感じない時もあるし、見えないけれど、何か純粋な温かな善意のようなものを感じる時もあるでしょう。又、濁った冷たい悪意のようなものを感じる時もある事でしょう。

 その時、全く感じないし見えない、或いは感じるような気もするけど、不確定で面倒なものは切り捨てる場合もあることでしょう。

 又、取り敢えずは様子見の場合もあることでしょうし、大切にしようと思う事もあるでしょう。

 荒井由実(ユーミン)の歌詞に、『小さな時は神様がいて…』があって、私は、今はこの感覚が自然で正しいと思っています。

 しかし、善悪混合の中に人は成長して行き、その課程でこうした感覚を忘れたり、恥ずかしく思ったりすることがあります。

 その結果は別にして、自分の子どもに対するように、幼い時代の自分に丁寧に向き合うことが大切です。不確定なものは、拙速に決めず様子見をするのは良いのですが、時折向き合ってみるのが大切だと思います。

 その時の環境により右左に揺れながら、どちらかの方に進んで行くものです。

私の体験

 これも手前勝手ながら、以前にも紹介したものの私の体験をお話します。

 二十代前後の時、誰かの話を真に受けたのか自分で考えたのかは忘れましたが、信仰は勘違いだと思っていた時がありました。

 小冊子『神道の悟り』P22にその入口と出口について書きましたが、ここではもう一つの出口についてお伝えしたいと思います。

 信仰の無益さを伝えようと、論文に取り組み、もう少しで完成というところで、馬鹿馬鹿しさを感じ止めた二つ目の理由です。

 私は信仰をしている人を上目遣いに見て、その勘違いから無駄な時間やお金を使うことを可愛そうだと思ったのです。

 そこで、正義感を出して、その人達を救ってあげようと一生懸命に論文に取り組む自分に気付いたのだと振り返ります。

 その正義感や懸命さは、何処から出て何処が元なのだろう?ということです。

 信仰を否定するのに、嫌悪感や悪意を以て行うのは公平でないと思う、その公平な心はどこから来たのだろう?それを分かり安くしようという馬鹿丁寧な親切心は何だろう?と思い到ったのでした。その()()()(じゅん)から、この見えないものを感じたのだと思うのです。

 もう五十年近い前の事で、明確でないものの、そんなことで自分のやっていることが馬鹿らしくなったのだと、(うっす)らと記憶します。

私達の(ほん)(せい)

 境内の幼保の乳幼児達と接して感じるのですが、私達は生まれながらに正義感や秩序感や自主性を持っているのです。

 同時に、祈りも気がつけば私達の本性ですし、信仰はそれを家族や近しい人と共有して安心感を得るものです。

 そうした時の対象は、本教だけではなく、神社仏閣の観光参拝でもあることです。

 そうした中で、見える見えないは別にして、自分自身の信仰に気付き、その深度を測りながら、安心の境地を得るのだと考えます。

 

令和5年6月号 No.1312  2023-6

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