必然の幸せな毎日へ
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
WBCロス
ワールド・ベース・クラシックは平成18(2006)年に始まり、第2回の平成21(2009)年以降は、4年毎となっています。
日本は1回と2回に優勝し、令和3(2021)年は新型コロナの影響で延期となり、今年(2023)年3月に開催されました。
次第6回は、遅れを取り戻すべく3年後の令和6(2026)年に開催されるそうです。
そして3月22日水曜午前に、日本はアメリカを下し、見事に3回目の優勝を決めました。
今第5回は、日本でのリーグ戦からアメリカでのトーナメントまで、TVの視聴率も過去最高のようで、多くの日本人が熱狂しました。
世界一となったのですから、他に比べるものがありません。
そこで、話題になっているのがWBCロスだそうです。
こんな楽しい刺激に変わるものが見つからない、ということです。
これは、ギャンブルや飲酒でハイになった人と同じです。
その刺激が無いと、目的を失い、迷ってしまうことがあるのです。
迷いの本言(=その言葉の持つ本来の意味)
は禍・呼びで、依存症のように刺激を追い求める余り、人生を見失う事もあります。
寅さんの名言
・偶然(天佑)の幸せ1
平成22(2010)年2月号でシリーズ映画『男はつらいよ』での主人公の寅さんへの甥の満男の質問とその珍回答を紹介しました。
その一つに、「人間は何の為に生きてんのかな」があります。それに対して寅さんは、
「難しいこと聞くなぁ、お前は。…何と言うかな、あ〜生まれてきてよかった。
そう思うことが何べんかあるだろう。
その為に生きてんじゃねえか。」
何とまあユーモラス且つ分かりやすい言葉で、人が生きる意味”を解釈しているのでしょうか。『そうか生きることは有り難い・生きてるだけで儲けものなんだ』ということが、感覚で掴み取れます。
こうしたいい加減のようで結構真面目に考えさせる言葉の使い方・考え方が、人生を楽しく生きるコツのように思えます。
こうした有り難くも偶然のように神(=天)から与えられた幸福感を、天祐(天からの戴きもの)とも言います。
・天佑(偶然?)の幸せ2
確かに、思い返せば、自他のスポーツや仕事の捗りの良さ等に、充実や幸福を感じる時があります。
又、年に何日か、日常でも素晴らしい朝日や夕日や季節の景色への愛おしさを覚え、生
きていて良かった!と感じる時があります。
又、体調もそこそこで、なんとはなしに心地よさ・幸福を感じる時もあるものです。
これらも、天からの生きる為の励まし・勇気づけのような、天祐と言えます。
しかし、幸せはそんなに儚く刹那的なものなのでしょうか。
折角の天祐をきっかけに、より前向きに考え、自らも働きかけて得る安心・幸せの日時を増やす工夫・知恵はないものでしょうか。
勿論努力も大切でしょうが、その努力を楽しめる心の持ち方が、実は殊に日本には古来から伝わっているのです。
必然の幸せな毎日へ
御教祖の御歌集、皇道百首に、
高照らす 吾が日の御子の 傳へ来し
顕事ぞ 神の道なる があります。
前述の喜びは、大元の親である神から祖先を通じて伝えられてきた、特別ではなく、普通に有るべき幸せである、との教えです。
神道と他の宗教の違いは、生きている現世・顕世にこそ幸せを得るのが、祖先の安心・幸せでもある、という考え方です。
自爆テロをして、来世で酒池肉林を味わう等は、恐るべき勘違いです。
幸せは、家族や社会と共有することでより大きな幸せとなる事に気付けば、家族や社会にどんな貢献が出来るだろう、となります。
接客業であれば何をしたらお客様に喜んで貰えるだろう、製造業ならば何を作れば便利に感じて貰えるだろうとなります。
教師であればどう伝えれば楽しく学べるだろう、公務員ならば国や町の為に何をすれば、
皆が暮らし易くなるだろうとなります。
宗教家ならどんな祭事をしたら参拝者に寄り添え安心して頂けるだろう、家族ではどうすれば安心の居場所となるだろうとなります。
これらの工夫で、より高い次元での喜びの時間が増えて行くのです。
これこそが、普通に神の道を歩むという、理想の一つと言えます。
幸福への道程
その基本が、折りに付けて触れる、幸福への方程式・道筋ともいえる道程です。
簡易に繰り返すと、
1.罪(七罪=怠・詐(嘘)・貪・憤・慢・憂・怨)に触れないように気を付け、
2.触れた罪を常に祓い、
3.日気(神の気)を吸い、大気(=神)と波長を合わせ、
4.徳(八徳=健康・誠実・陰徳・施捨・労役・愛他・克己・自白)を積む。を、毎日少しづつでも丁寧に繰り返すことで必ず運が開けてきます。
御教祖の御歌集、桃の一枝に、
清めばのぼり 濁ればしづむ 神理は
神代も今も 変らざりけり があります。
心が清く軽ければ、死(=帰幽)後、自然と日の若宮(天国)に帰り昇り、心が濁り重ければ、自然と黄泉に沈むのは神・自然の理です。
それは、帰幽した後だけでなく、生きている今も同じです。
帰幽後だけに片寄るのではなく、現世にも共通する顕幽一貫とは、こんなことなのです。
こうして一年に二・三度の幸せが月に一・二度、週に二・三度と増える実感を味わえることとなるのです。