御教誡十箇条(略解の詳解)52
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第六条己の身の分限を忘るることなかれ2
3)分限を忘れた人2
先月号で触れた、蘇我馬子や入鹿・弓削道鏡・幸徳秋水のような者が出てくるのは、皆日本国民の分限の自覚を忘れた結果なのです。
天地を一貫として通る、公で正々堂々とした道に背き、親神の御心を逆撫でするような言動から、天の裁きを受けるのです。
こうした人の出た家は、子孫まで世の中から冷たい目で見られ、立身出世を遂げることが出来なくなるのです。
注1自然の道を振り返らず忘れてしまう、という勘違いをしているのです。
注2天の裁きとは、罰を受けるのではなく、罪に染まった霊魂は神祖の徳を撥ね除けるので、幸運を逃し不運から免れなくなることです。
注3神道では祓えない罪はないと考えますが、前者達のような罪は、祓う努力を続けないと、自殺と同じく子孫まで根を残してしまうです。
・安心の質の違い
私たち本教の教信徒としてという前に、信仰をする者としての目的は、全ての人の充実・安心、つまり霊魂の安定といえます。
例えばオウム真理教の若い信者は普段の生活に倦怠感を覚え刺激を求める“日常性の打破”のような目的も感じられます。
しかし、その人等が安穏と感じている日々は、本当につまらない生活なのでしょうか。
安心=霊魂の安定した生活と、安穏でつまらない生活とは、外見は似ているようで、内容の本質・心の持ち方は全く違うものです。
むしろ、平安とは、見た目は無風状態でつまらなく感じるものの、内容を確かめれば精神的にも充実した状態である人もいるのです。
自分の人生を見据え、何に依って生きるか、自分で目的を持って生活をしているなら、必ず充実と共に平安な生活が送れるのです。
いかがわしい宗教に迷い込む人は、運もありながら、自分の平穏の度合いや、その充実の仕方に確信が持てないのでしょう。
それは、若いときには誰にでもある事ですが、不運にもいかがわしい宗教の関係者に出合い、取り込まれてしまったのでしょう。
幸せの青い鳥は、実は自分の足下の家族や友人との触れ合いの中にいるのに、隣の芝生の方がよく見える、反抗期のような時期があります。
同じ安穏な生活と感じても、自分の人生を自分で見据え、何に依って生きるか・目的を持って生きているかに気付くか否かです。
そこが自覚出来れば、必ず充実且つ平安な生活が送れるものなのです。
・安心の質の見分け方・四魂
それでは、質の高い充実した安心と、質の低い安穏は、何によって見分けるのでしょう。
自分の安心の質を見分けるには、本教の四魂論の考え方を以て行う方法があります。
例えば四魂の働きの一つは、喜怒哀楽です。
即ち、喜び楽しみは和魂・怒り哀しみは荒魂・その間を行き巡り知恵を働かせ、それぞれの度合いを幸魂に伝えるのが奇魂です。
幸魂は人の魂の中心で、奇魂を使い、そうした感情を制御・調整します。
自分の心の動きを省みれば、或時は喜怒哀楽を解放し、又、或時は制御・調整しながら生きている自分に気付くのではないでしょうか。
例えば、和魂は、現実に応じて喜び楽しみ、同時に怒る心を和め柔らげているか。
又、荒魂は、現実に応じて怒り悲しみ、同時に勇気・積極性を発揮し、生きる力を与えているか。
又、奇魂は、夢を通じて暗示を与え、同時に知恵を以て何故か・どうしようと考えているか。
本魂である幸魂は、他の三つの魂の活動を元に、自分だけでなく、世の為にも尽くせる意欲を持ち続けているか。
こうして、自分の四魂の一つ一つがその役割をどの程度果たしているかで、質の高低の見分けが付くのです。
補足ながら、夫々が過去に経験した事でしょうが、大きな哀しみや悔しさに、自分の幸魂だけでは調製・制御出来ない場合があります。
その時には、その元であるご先祖、又その大元である神に調製・制御(=四魂の安定)を祈り願うのです。
自分は不信仰だと不自然に自慢する必要はなく、素直・謙虚に幼少時に親に頼ったように、神祖に祈り願うのが、自然の人間らしい姿です。
・信仰の目的は四魂の安定
そう考えると、信仰の目的の一つは、人生の充実・安心、即ち四魂の安定となります。
こうした四魂の働きを知れば、それは自分の為だけでない事にも思いが広がります。
即ち、縦には祖先と子孫、そして横には家族や隣人を含む社会の為に尽くし、共に幸せを分かち合う事だと気付く事になります。
これが、四魂の安定の、より大きな結実とも言えます。
・カルト信仰に取り込まれる背景
高学歴者の多いと言われた、例えばオウム真理教の信者の心持ちは、私達の心の中にも存在すると言えます。
それは、幼少より親に頼る事に慣れ、成人してからも他に頼る習慣から離れないと、自分で考えることを忘れてしまうことです。
情報は常に、一端信頼した人からしか受け入れられず、恐ろしいことに、その情報は無条件で洗脳のように吸い込まれてしまうのです。
幾ら素晴らしい宗教も、食べ物と同じく腐るように、何事も腐敗しないものはありません。
ましてや、最初から腐敗の要素があるものにまで取り込まれるのは何故でしょう。
そこに必要なのは、腐敗に気付く・自分で考える、という人間性です。
それが、育ってないという、現代社会の欠点が見えてきます。
分限を忘れた人とは、人類や日本の歴史の中で受け継がれ積み重ねられてきた、このような視点を、親から受け継がず忘れているのです。
よく考えたと言っても、比較の少ない自分の短い人生の中だけからの結論ですから、周囲からは薄く見えてしまうものです。
カルト集団に取り込まれる人等には、こうした背景があるのだと推測されます。)
子がその分限を守らなければ、家の存続を断つほどの、恐ろしくもはっきりとした神の理があるのです。
国や家を思い、その存続や発展への気持ちがあるのなら、各々の分限を忘れない事です。
神から戴いた分限を忘れると、必要以上に着飾ったり、高慢になったり、学者の真似をして恥をかいたりすることになります。
カラスが鵜の真似をして水死するような、みっともないことになるのです。(3)終わり)