宗教の定義
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
人の死に方・祭りの起源
来年で古稀を迎える昭和30(1955)年生まれが中心の同級生のラインでのやりとりからお話します。
コロナ騒ぎが令和元(2019)年12月に始まって約1年半後の令和2年5月に、
Q1.
「コロナの“おかげ”で日本の全体の死亡者数は一万人も減ってるんですよ。
日本じゃなんだかんだで年間百万人以上死んでるから、たったの一万か?って話だけど、それでも、一万人は大きいでしょ。
もしコロナ自殺なんかしなければ、死者数はさらに減るわけです。もしワクチンでコロナ撲滅したとして、死者数が又元に戻った時、多くの人は喜ぶのかな?
コロナさえ減れば、他で死のうが関係ない!と言うんだろうか?
マスコミはどう報道するんだろう?
問題なのは人の死に方であって、数ではないんだ?って事なのかな?。非常に素朴な疑問ですが、誰か答えられる?
コロナは汚名を一身に浴びながら、一万人
の命を救ったエライ奴っちゃ!と、お祭りしてやらないと罰が当たるんじゃない?
神様、住職、どう思う?」とありました。
神様は多分私の事で、住職は同級生の事で、住職からの返事が無かったので、私が応えることになりました。
A1.
「人の死に方は、コロナで亡くなるのは火葬が終わるまで会えないちゅうし、事故で亡くなるのと同じに、不幸な感じがするよね。
けれども、死に方と言うのは、老衰も病気も事故も、実はそう変わらないもので、生が楽しめれば、それで良いのではなかろうか。
楽しく充実した生き方というのは、神道では世の為人の為になり、死後も感謝されたり懐かしく思って貰えることだと思う。
祭りの起源は、慶事でも雨乞いや疫病平癒でも、自然に湧き上がる民衆のエネルギーや、分限者や権力者の発声から始まるよね。
祈りは人の本能で、それが相互作用し合って大家族や村での信仰に繋がって行くように感じる。現代は会社の新年安全祈願かな。
私は、祈る或いは念じるは、それしか出来ないという消極的なものではないと考える。
私やもっと早く祈ろうとしたかもしれない心の発動が、周囲に伝わって行くように思う。
それが世界中のあちらこちらに自然と火を付け、ある時は祈願の祭りになり、ある時は薬を創ろうとする意欲となって現れる。
祈りはそんな情動に繋がって行く積極的な働き掛けと信じて行う、そんな感じかな。
祈りを行う神官や僧侶の中には、偶には特別な力を持って雨を降らしたり疫病を平癒したりする力を発揮する人も居るかも知れん。
そやけど本来は、願う人等の心に寄り添う人やと思う。
寄り添って一緒に儀式として形に表す内に、あーら不思議というような、力になることもあるのかも知れん。
結果に拘る時代もあったかも知れんけど、実は寄り添う神官・僧侶を神仏への中取り持ちとして、心を揃えるのが大事な本質と思う。
心を揃える事で、もし願いが叶わず災難が降りかかっても、助け合う心を育むんよね。
神道は多神教?
又、昨令和4年12月に、キリストの誕生を祝うクリスマスや、釈迦の誕生を祝う花祭りの話題から、神道の教祖の話になりました。
Q2.
同時に、神道は多神教?という一般論の確認もありました。
A2.
神道を多神教と決め付ける宗教学者(全てでは無い・特定の宗教の御用学者)の議論をそのまま信じる神主さんは相当多いと思う。
そんな人達は、敬神尊祖というどの宗教にも負けない教義の、宇宙に通じる大自然を神としてきた、敬神の一神教の部分を忘れとる。
自分の神社の祭神の、天照大神とか稲荷神とか大国主命とか八幡神を主祭神と勘違いしとると思うんよね。
そこで、何故か地鎮祭以外の、病気平癒も交通安全も全部その神社の祭神に願うのよ。
例えば病気平癒は大国主命や少彦名神、交通安全は猿田彦神に願うべきなのにね、
本来の神道は、宇宙に通じる大自然を一神とし、ご利益の働きを下さる多くの神と別けて考えるべきなんよね。
そして、天照皇大神やその長男の天之忍穂見命や宇麻志麻知命等、複数の教祖と言える先人を忘れとる。
宗教学者は、その折伏を笠に来て、神道には教義と教祖(あと一つは組織でこれは在る)が無いので宗教として不完全と言うのよ。
宗教の定義
Q3.
教祖と教義が無いと不完全という宗教学者って、宗教を形式的にしか捉えてなくて変だね。
A3.
同感!、三大とか五大と言われる世界宗教から見て、本質を踏まえている神道が一番厭っちゅうのが、本能的にわかっとるのよ。
敬神尊祖の本質さえ掴んでいれば、その宗教に入らなくても、お金を払わなくても幸せになれるちゅう真実に気付かれると困るのよ。
神道は南無なんとかで帰依したり、アーメンで契約したりせんでも、高天原(正確には日の若宮)に行けると考えるのよ。
即ち、心を清々しく体の健康を志し、家族や世の為にも尽くすという、人本来の生き方を保つという事で、敬神尊祖に通じるよね。
そやけ、他宗の宗教学者が神道の本質を皆に気付かないようにさせる為に、そんな神道を馬鹿にする理論持ち出したんよね。
そこで、本質を踏まえている事に気付かない神主さんが、言われる儘に神道には教義と教祖が無いと、真面目に言い募りよんよね。
その三つの基本定義は実は神道にもあるんやけど、他宗の宗教学者は、四つ目の大切な要素も隠そうとしているように感じる。
その四つ目とは、人類・日本民族が、神とは天国・地獄とはと、言語の発達と共に培ってきた共同生活と整合性のある叡智よね。
で、一番大事な四つ目の叡智の集積を否定したのが、今の世界宗教と言われるものである事を気付いている人は、極少数と思う。
気付いていても、多くの宗教に不都合な真実を、遠慮して言わんのよね。
世界宗教は、それを全部否定して、全て我が宗教の主祭神仏又は教祖が創ったと言い切るから、後で色んな矛盾が生じとるよね。