科学・哲学・宗教の芽・茎・花
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
朝永振一郎博士の言葉
朝永振一郎は、湯川秀樹の昭和24(1949)年に続き、昭和40(1965)年ノーベル物理学賞を受賞した理学博士です。
湯川博士の受賞は筆者が生まれる前でしたが、小学校の図書室には写真が飾られ、伝記本も見やすいところに置かれてました。
朝永博士は、湯川博士の一つ年上ながら飛び級の制度で、京都帝国大学の同学年で、切磋琢磨の間柄と伝えられます。
私が小学校4年の時、日本二人目の受賞ということで大きく報じられたものでした。
放射能の研究で、やはりノーベル賞を受賞したキュリー婦人の伝記を読んでいた私は、物理学者になろうと本気で思ったものでした。
その朝永博士の国立科学博物館に展示されていたという色紙に、次のような言葉が記されていたと読売新聞にありました。
科学の芽・茎・花
「ふしぎだと思うこと、これが科学の芽です。
よく観察してたしかめ、そして考えること、これが科学の茎です。そうして最後になぞがとける、これが科学の花です。」
哲学は苦手と言いながら、父上は当時著名な哲学者で京都帝国大学の教授で、劣等感に悩む事もあり、父の影響もと思われます。
湯川博士と16年の差がありますが、寄席や女浄瑠璃に入り浸る趣味人だったようで、哲学的な思考も身についたかと思われます。
哲学の芽・茎・花
私も哲学は教養として囓った程度ですが、この文を読んで、先ずは哲学も同じ様な経過で理解が進んで行くのかな、と思いました。
そう考えると、多分多くの哲学者は、外野の私達が思うほど煩瑣ではないと思っている人は結構居るのではないかと想像します。
・哲学の芽
例えばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」も、自分の存在を、考えるという自分の内側から確認するという意味のようです。
自分は、或いは周囲の人や社会は存在しないのではと疑い、どう確かめたら良いのだろうと考えます。
こうして疑いを持つのが、哲学の芽です。
・哲学の茎
その時、もし世界の全てが虚偽だとしても、それを疑っている意識があるのならば、自分自身の存在は否定出来ない。
こうしてよく自分を観察して確かめ、そして考えることが、哲学の茎です。
・哲学の花
そうして、全てではないにしろ、先ず自分の存在を確かめ、周囲の存在への思考の足掛かりが出来る。
これが哲学の花なのでしょう。
宗教の芽・茎・花
科学や哲学はキリスト教が神の存在を証明する為に奨励した歴史があると聞いたことがありますが、その結果はどうなのでしょう。
現代では、同じく神に捧げる為の絵画や音楽と同様に、その不存在を証明するような、自主独立性に目覚めているように感じます。
科学や哲学は、間違った仮定を証明しようとしない限り、芽・茎・花のような楽しみの中での、意外に煩瑣なものではないと思います。
宗教も、人は神が作った不完全な生き物とか、だから輪廻して悟りを得なければならない等、煩雑に考える必要はないと思います。
人類の知恵の集積として、人は大自然なる神の子孫と仮定すれば、極小ながら完全な生き物であり、悟りも煩瑣ではない筈です。
宗教の求める悟りや幸福は、メーテルリンクの童話「青い鳥」のように、実は色んな宗教が成立する以前の自然の教えにあるのです。
・宗教の芽
例えば「死後の世界はあるか?」も、今の自分を、生まれる以前や死後より、一層広い視野から確認して考えるものだと思います。
自分や周囲の人の死後等は無いのではと疑い、或いは在るとしても、それをどう確かめたら良いのだろうと考えます。
こうして疑いを持つのが、宗教の芽です。
・宗教の茎
その時、もし無いのであれば、自分の死後子孫や自分の属した社会に財産を残そうとか幸福・繁栄の願いなど持つ必要はありません。
しかし、自分はそうした願いを持っている
し、親の愛情を振り返っても、親が亡くなってその感情がすぐに消えるとは思えません。
こうしてよく自分や周囲の人の感情を確かめ、そして考えることが、宗教の茎です。
・宗教の花
そうして、先ず自分や祖先の感情を確かめ、周囲の感情とその形の存在への確認から、安心の足掛かりが出来る。
これが宗教の花と言えます。
まとめ
ここまでの話を覆すようですが、科学を含め、こうした所謂三段論法も、例えば哲学の茎の自意識についての証明はあやふやです。
科学にしても、莫大な宇宙の中での地球という些末な環境の中での観察や実験が、宇宙に通用するとの証明は出来ません。
しかし、人類はこの些末な環境から、宇宙への解明を進めています。
そう考えると、科学も哲学も宗教も、同様のある意味あやふやな意識の上に立って、知識・叡智を積み重ねてきているのです。
この三つを比べると、宗教のみがこうした段階を経ずして、過去の叡智の集積を自分勝手に解釈して押しつける宗派が大部分です。
所謂、霊感・インスピレーションも否定しませんが、せめてそれと平行して、こうした手法を素直に活用することが肝要です。
本教人である私達は、こうした観点を忘れずに、常に自分の考えを大切にしながら、本教の大成された教えを活用して行きましょう。
本教は、入信の有無にさえ囚われない、引き出しの多い、自然の教えなのです。