神祖の在る無し
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
日本人の信仰心
時折紹介する同級生等のラインで次のように3人の会話が続けてありました。
1.日本って幸せなのか不幸せなのかわからないけど、多くの人は信仰心無し。
八百万の神はアチコチにいるし、阿弥陀さまやその弟子みたいなのも沢山いるし。
仏様、ご先祖様は、現存する人より多い。
これじゃ宗教、なかなか生まれない。
信じるのは、自分の心の中にある思いだけ。
だから日本って、外国のように団結しにくいんかな?
2.各人が抱える宗教観なんか、SNS上なんかでは語れんと思います。
マレーシアKLに丸4年以上住んで、イスラム国家とはいえ、多民族の異宗教が大きな反目もなく共存する不思議な経験をしました。
これは国家成立と民族の歴史、イスラムと一口に言っても、原理主義から昨今は若者を中心にアングラ系もあります。
それらが複雑に絡み合っているようです。
翻って、我が国を見れば、確固とした宗教観を持つ人は少ない、というか持たないのが一般的な国民性なんだと思います。
3.確かに。
近所の諏訪神社には教義なんかないもんね。
あるのは形式というか、気配というか。
例えあったとしても、文字を持たない年月の中で消えてしまったのかも。
イスラム、仏教、キリスト教と渡来しても、その「カタチ」だけを受け入れて「教義」を忘れ去るのが日本の宗教への関わり方ではないのかなぁ。
ここで、何か悲観に終わるような重い雰囲気になったのか、いつもは元気なラインの会が途切れてしまいました。
そこで筆者(私)の出番となりました。
私.日本には、敬神尊祖と言う、一神教にもインドや中華の宗教にも追随出来ない信仰文化があるのよね。
それが、戦国時代、江戸期の寺請制度、明治から昭和、アジア太平洋戦争での失望とかで、段々と見失われて、今はその見失われた世代の子・孫の時代なんかな。
神官の多くも、敬神尊祖の意味や活用に付いて話せる人がいないのは、悲惨な限りと思う。
でも日本人と未開と言われる例えばイヌイットやナバホインディアン等には、その感覚が若干残っとる事に意識を向けて貰いたいなーとか思っとる。
このままでは、自由の女神の遺像を見る『映画・猿の惑星』の住民や、現代でもギリシャ神殿や神宮を過ぎ去った文明のようにしか見ないという、米欧人と同じになってしまう寂しさを感じます。
と送ると、『飲んでない時はまともなこと言うんだねぇ』という感想がありました。
加えて、『宗教や政治の話を公にすることを普通に話せるようにならないと、お互いの本音が引き出せないよね。
又、こうした話をすることで、底辺を広げるべきだよね』とあった事です。
敬神尊祖について詳しくは、『敬神尊祖の再発見』の小冊子を大教庁から発行していますので、ご覧下されば有り難いです。
神祖の在る無し
7月に、京都検定2級の資格を持つという、一学年上の高校の先輩に誘われて、京都探訪を行いました。
一日目は午後から、京都の方でも知らない方が多い、織田信長や豊臣秀次の墓や晴明神社等神社仏閣巡りをしました。
二日目は午前中に伏見稲荷の山巡りや江戸時代の画家、伊藤若冲の墓もお参りしました。
一日目も二日目も、半日で約2万3千歩と1万6千歩ほども、日本史や文化を振り返って説明して貰いながら歩きました。
一日目の夕刻から飲食を楽しんだのですが、その時その神社仏閣に造詣の深い先輩から思わぬ言葉が飛び出したものです。
「俺は、神も仏も先祖も信じない。
死んだら終わり、先祖とかおらん。
だって、困った時に助けてくれたことなんて一度も無いよ。
なんで苦しい時に助けてくれんの?
居るんだったら、出てきてみろよ!と思ってる。」でした。私は、「先輩、出口のないトンネルや朝が来ない夜はないでしょう。
今、こうして京都探訪が楽しめているのは、苦しいこともあったでしょうが、助けて頂いたからじゃないですか」と話したことです。
助けてくれなかったから居ないという人には、「じゃあ今はどうして楽しく出来ているのですか。
ということは、助けて頂いたということになりますよね。」と言うのは、簡単な論理です。
しかし、今が苦しく、神も祖先も助けてくれないから居ないに違いない、と言う人も少ないように感じます。
苦しいときには、知らず知らずに祈っているもので、それが私達の持つ本能とも言えるものです。
人が憲法や法律の基となる道徳を備えているのは何故でしょう。
体力の弱い人類が太古の昔生き延びる為には協調性が必須で、その為には嘘をつかない信頼等が必須で、それが道徳の基と言えます。
道徳は生きる為の整合性のある本能・魂で、その大元を神と考える事が出来ます。
数学の証明
筆者は不得意ですが、よく出来る人から9.999…と続く連続は、いつまで経っても1にならないように見える。しかし、1になる数式が在ると教えて貰った事があります。
時折紹介する事ですが、人には死後必要の無くなる、食欲や性欲や暑い寒いの感覚等があります。反対に、子孫への愛情等無くならない、死後も必要な感覚もあります。
私達は本能的に子孫を愛おしく思うから、病気なんかで死ねないと思っていても運命は変わらないものです。しかし、死後も霊魂となって子孫を見守るという考え方は、安心に繋がる整合性をもった考え方です。
そこで、誰も死後の在り方を見たわけではないものの、そう考えることで安心するのは、9.999…となるのではないでしょうか。
そこで神や先祖の存在が、数学的にも証明出来るように考えるのは、筆者だけでしょうか。
死後の不要な欲や必要な欲について詳しくは、『神道の悟り』の小冊子を大教庁から発行していますので、ご覧下されば有り難いです。