本津教・神理教の開放性
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
お参りの方の気づき
本教では宿泊参拝者のいない日曜祝日以外の毎朝、六時半から三十分ほど、教祖殿・大教殿と朝拝を行います。
教職員祭官が中心ですが、長い間近くの方もご一緒されています。
私は、そのままお帰り頂くのも味気なく思い、これも気がつけば十年ほどになりますが、終わって二〜三分の教話を行います。
御教祖の『皇道の長歌82』や『人体本言・火水の巻・暗夜の灯台の合本』等や、今は四代管長の『教示録』のお取り次ぎです。
先日、いつもお参りされる方が言うのに、
「神理教の教えは、他の儒教・仏教やキリスト教等と補い合う必要がないですね。
神理教の教えだけで、全てが一貫してまかなえるのですね。」でした。
確かに、色んな教えが織り込まれて、バラエティーには富んでいるけど、整合性は大丈夫だろうか、という教団も見受けられます。
私としては、
「よくお気付きになられました。」と思い、それに添ったお話をさせて頂きました。
神道と仏教の関係
神仏習合(混淆)という考え方は、仏教が日
本に入った西暦538年から、本地垂迹説を当時の貴族階級に折伏しようとします。
この説は、神社に奉られている神の本体は阿弥陀仏とか薬師如来・千手観音であり、日本の神は実はその使い走り、とするものです。
その説の根拠はどこにも見当たりませんが、仏像の芸術性などの文明に、恐れ入りました!となったのかと思われます。そして、
神社の中に神宮寺が創られ、例えば出雲大社のように、一時は歴史有る社家よりも、新参の僧侶の方が実権を持つ時代も出来ます。
そこで、出雲大社の主祭神は、実は大国主命ではなく、その祖先の素盞嗚神である等と、取り替えられた時期もあったのです。
それと平行して、仏教で悟りを得られない人が、殊に紀伊半島で部分的に神道に回帰したのが、熊野信仰と呼ばれるものです。
神道の悟りを忘れた神社の神官も、財政を潤す仏教者を受け入れたように思います。
日本人の多くは仲良くていいじゃないですかと微笑ましく思うようですが、歴史を知る人は、侵食されたとの思いが強いのです。
ところで、その習合により、釈迦の悟りを得るという目的を果たせたのでしょうか?
拘り等の煩悩がよくないとか、人は必ず死ぬことを悟るべきだ等の悟りの教えが、人を本当に安心に導くのでしょうか?
輪廻転生以前の霊魂については触れないと言う割に、死後の極楽や地獄を、脅しのように説くのは入信の為の手法でしょうか?
本教の一貫性
本教では、近年私が、小冊子『神道の悟り』や『敬神尊祖の再発見』で、物部・巫部家と教祖の教えの一部を現代風にお伝えしました。
そこにも記していることですが、天国・極楽(神道の高天原・日の若宮・天国)は、単に快楽
を与える場所ではありません。
快楽と思い込ませるから、死んでも大丈夫・死んだ方がむしろ幸せと、自爆テロをさせるおかしな理論が出来てしまうのです。
神国は、子孫を守りその幸せを見て安心を楽しみ、もし子孫が間違った方向に進めば夢や小さな傷病や災難を通して伝える処です。
神に生前の善を評価されながら、有意義に死後を楽しめる場所とも言えます。
地獄(神道の黄泉)は、酷い目に遭わされる処ではなく、生前の間違いを指摘され、そんな目にあうような恥ずかしさを味わう処です。
しかし、永遠に苦しむのではなく、反省と祓いにより、霊魂は軽くなり、自然に日の若宮に還り昇るのです。
古神道である本教には、そうなるように、教えに添った神事・神術や、生活への活かし方、霊魂観に併せた葬儀・霊祭があります。
神道では、仏教で教える怒りや悲しみや拘り等の煩悩も、必要だから神に備えて頂いていると考えます。そして、
それらが心を解放するための過程であり、それを貪り染まり過ぎないためには、どう向かい合うかを伝えます。
本教には、神道に伝わる霊魂観や言霊学、古医道を受け継ぐ人体本言が体系化され、その悟り・神髄を基に生活に活かされます。
日常は、時折ここでも触れる幸福の道程に添って、1.七罪を犯さず2.不意犯した罪を祓い3.神気を吸い4.八徳を積む、です。
何か非日常な心配や願い事があれば祭を行い、教えに添った祝詞や神術で心配事を祓い、安心の境地に進みます。祖先祭は、太古からの伝承に添った祭式と祝詞により、ご先祖と家人の霊魂の安定・安心を、共に祈ります。
このように、人生の全てが、本教によって一貫した教えの中で賄えるのです。
他教との違いと、本教の開放性1
以前、遺伝子が1%位しか違わなくとも、人と猿が大きく違うように、本教と他教も似ているようで大きく違うとお話しました。
これも簡単に述べると、@神は先祖の大元であり神が人を土で創ったりしてない事。
A煩悩と蔑まれる物も、神から戴いた大切な本能であり、貪らなければ食欲や性欲等も必要で、怒りや悲しさは向き合う方法がある事。
B天国・極楽(日の若宮)や地獄(黄泉)は、先に述べたように、常に希望と努力が報われるためで、脅しに使われるべきではない事。
C古神道・本教は、入信しないと日の若宮に行けない事はなく、先に述べた日常を行っていれば、誰でも神の世界に行けると伝える教え。
他教との違いと、本教の開放性2
このCが他教との違いの極み、とも言えるのは、自分の教団に入信しないと天国に行けない、と言わない教団は殆どないからです。
それは、唱え言葉を見ても分かります。
神との契約を意味するアーメンや、仏や経典への帰依を意味する南無阿弥陀仏や何妙法蓮華経とは違います。
本教では、天在諸神や配祀諸神等に、守り給へ幸ひ給へ、とお唱えします。
それは、神道への帰依というより、人類・日本人が、自然に歩いてきた道を、真っ当に歩こうという人が唱える言葉です。即ち、
私もこの世を神代とするべく働くのですから、お守り下さるのは、同じ方向性を持つ以上当然でしょう、という心持ちだと考えます。
出来れば、健康で幸福感を持ちながら世に尽くしたいという気持ちからの唱え言葉で、この辺りにも違いが現れています。
以上が、本教は誰に対しても開かれた教えという由縁です。