御教誡十箇条(略解の詳解)49
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第五条世は大なる一家なることを
忘るることなかれ7
7)五色の人種・世界平和への努力2
(筆者付記・先月より続く(先月と3行重複)
世界の真の平和にとってどの形態が良いのかを考える時、必ず世界の統一という考え方が出てきます。
世界の統一については、宗教は別でもそのいがみ合いを無くす意味での世界宗教平和会議や世界連邦等での活動が実際にあっています。
世界平和を目指す国連はもとより、多国間の経済協力の組織、ヨーロッパではEUという大統領や閣僚を持つ大きな組織が出来ています。
世界の統一は、人類の大多数が、理想としているのだと思います。
そこで、世界で最も古い歴史を持つ日本の皇室を心の中心とする、というのが御教祖や、この書の著者の小田清彦師の思いです。
又、本教の多くの先達の思いでもあります。
しかし、直ぐにそれを世界が容認するとは思えませんし、それを錦の御旗に、侵略したり押しつけたりするのは間違いです。
世界の王朝とその歴史を考え合わせるに、そうなるのが、一番自然という考え方です。
御教祖がこの第五条を示されたのは、天在諸
神の御心でもある、広く平等に愛するという博愛の精神を先ずご自身が実践されたからです。
そして、私達にもその大切さや素晴らしさを伝えられ、その先に世界平和があるのです。)
8)まとめ(第五条の概略)1
(筆者付記
・神道が抑圧された江戸時代
江戸時代は幕府の政策で鎖国となり、日本の国内さえ藩によって分断され、自由な行き来が出来ませんでした。又、寺請制度となり、寺院が戸籍を取り扱うと共に、宗旨を仏教に強制されたため、信教の自由を奪われます。
そこで、教義に先祖崇拝の無い仏教が唯一の宗教となり、伝統文化のみの神職の多くは、教義や先祖祀りの礼式を見失うことになります。
そして、江戸時代の日本人の多くは、人が大自然なる神から生まれ、その血統を受け継いでいる感覚を薄れさせて行きます。
互いが血を別けた同胞であることにも、思いを寄せる機会が無くなりました。
寺請制度は、皇室との繋がりを薄れさせた為に、維新の王政復古への時間稼ぎとなり、約二百六十年の政権安定をもたらします。
しかし、その一方で、本来の信仰の在り方や先祖崇拝の意義を、一般神主を含めて現代に至る迄見失わせる事になったのです。
寺請制度の弊害は、神の理を公に普及出来ない事でした。
教祖の父、経勝翁の神理(しんり)を復活する望みも、その時代には叶いませんでした。
余談ながら、日本本来の習俗・信仰を研究する国学と、神道古学を純粋に受け継ぐ本教に、かろうじて教えが残ります。そして、
神道研究の隠れ蓑のような国学を精神基盤として、明治維新に繋がってゆくのです。
・神道の一部が開放された明治維新
けれども天の運は巡り、明治維新に、76代のご先祖や経勝翁の遺志を継ぎ、御教祖は継承された教えを新たに大成されます。
それを、世に広く問い、二百数万人の独立請願の署名を頂くことになったのです。
それは、日本のみでなく、世界に向かって人間にとっての本当の信仰・幸せ(=安心・霊魂の安定)への方法を伝える事が出来るからです。
今まで鎖国によって隔てられ、人種こそ違え同じ神を先祖とする世界の人等と、交歓する事が出来たのは、神の御意志の働きと言えます
互いの存在さえ定かで無かった人等と知り合い、助け合い教えを伝え分かち合うことの、なんと喜ばしいことでしょう。
以上のように、小田清彦教正は、維新の激変を喜ばれていますが、神社神道の神職には、自身と家族しか神葬・霊祭は許されませんでした。
又、布教も許されず、祭事のみだったのです。
許されたのは、国の金銭的な補助を受けない、本教のような教派神道13派のみとなります。
世界との交流も、どちらかと言えば、他のアジア諸国のように植民地化こそされませんでしたが、不平等条約から解放されません。
他国への布教は、本教の場合、日清・日露戦争から大東亜(アジア・太平洋)戦争終戦前の半世紀弱で、戦後一旦中止を余儀なくされます。
本教は開教・独立時代より大きく勢力を失っていますが、5月号の存在価値に記したように、他に抜きん出た教えを保持しています。
そしてそれが、現在の本院に移ってからだけでも、1600年以上、栄枯盛衰を繰り返しながら続いている、他には例の無い存在です。
良い方に考えれば、今でこそ衰えているよう
でも、日本だけでなく世界に羽ばたく前途洋々の教団と言えます。
そう考えれば、小田清彦教正の期待がぬか喜びに終わることはありません。
・御教祖の自覚と志
御教祖は、神璽考を著し三種神器の誤解を正す等、国学の四大人にも比す功績を成した、小倉藩士西田直養翁に国学を学びます。
:注国学の四大人=荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤
神璽考は、殊に水戸藩に認められ、又吉田松陰は直養翁を国学の師と仰ぎます。
弟子で画家の松浦松洞に小倉に出向かせ直養の肖像を二枚描かせ、一枚を床の間に飾る程尊敬したと伝えられます。
御教祖は、松陰と共にその弟子の高杉晋作・平野国臣・野村望東尼・真木保臣と通じ、父経勝翁の遺志を汲んで、一時勤王の志士となります。
後に、巫部家の歴史を踏まえ、古医道と神道古学の道に転換されたのです。
そこで、直養翁の紹介で、錦小路家に家伝とも通じる古医道を学びます。
御教祖は、この漢方でも西洋医学でもない日本の古医道を皇国医道として大成し、富裕と貧窮を問わず医師として治療に専念されます。
博愛の精神を発揮され、貧窮の家には治療と同時に施しをすることもありました。
しかし、門前市を成す程の患者が訪れる中、ご自分一人の医術だけで救う人の数に限界を感じられます。
また、物部・巫部家は十種神宝を以て古医道と共に古神道を伝える家であり、父経勝翁の遺志であることも意識されていました。
そこでより多くの人を安心に導くために、古医道の基でもある古神道の教えを世に伝える道に更に転換されたのです。 (つづく)