御教誡十箇条(略解の詳解)47
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第五条世は大なる一家なることを
忘るることなかれ4
4)教祖の志3
・教祖の思い直し2
小倉藩の他出禁止の触れは、世直しの方法を、物部・巫部家本来のやり方に戻すべきだというお知らせだと思い直されたのです。
本教は、天之御中主神以下の十八柱を主祭神とし、天忍穂見命や天照皇大神や饒速日命を教祖のように受け継がれて来ました。
神理教教祖経彦大人命は、それらの祖先達の言動に倣うのが自然だと悟られたのです。
それは、教えの奥処を究め、神術を以て世の人の心と体を救い、神の教えを以て世の発展と安心に貢献することです。
私達の大君(天皇陛下)の前に、国内・国外を問わず全ての人が敬意を抱くまでに、広く神の教えを普及したいとも思われました。
それが、神と神の意志を直系としてそれを果たそうとされる天皇陛下への忠義と考えられたのです。
(筆者付記
人間本来の神の教えが再び知れ渡ることで、人間の本家である天皇家を中心に、自然に平和な世界として纏まって行くに違いありません。
これこそ、天皇家・日本人・世界全ての人が望む真の平和です。)
ここで、心を改め決められたことは、この先変えることはありませんでした。
5)全世界の為の天皇陛下1
この博愛(広く平等に愛する心)と仁慈(思いやりと慈しみ)に溢れる教祖の教えで、
『皇祖(天照皇大神)が皇孫(邇々芸命)に下された神勅(神のご命令)に、
「あなたは(邇々芸命)は中津国(現世)の君主になりなさい。」と言われたのは、日本だけではなく、
「世界の君主であれ」ということです。
決して地球の一部分だけの君主と、天の意思が定めたものではありません。
ただ現実は、神武天皇以来でも二千七百年の皇紀を経ています。しかし、未だ八紘一宇(天下を一つの家のようにする)の結実を見ないのは何故でしょうか。それは、未だ本教の教えが浸透してないからです。
心ある人は、宜しく奮励発揮する時が来ているのです。』と言われたことがあります。
(筆者付記
この考え方は、先の4)にあるように、それを武力で行うというものではありません。
世界で唯一本津教が残り、その中心となる天皇家を心の柱として、世界が一つになるのが自然だという考え方です。
それを理解出来るよう努力し、理解出来たならそれを目指しましょう、というものです。)
私達の国日本は、天津神にその子孫として大変永い間愛し慈しんで戴きました。
そしてその、日の大神(天在諸神)の直系の本家と仰ぐ天皇家を心の柱として、他のどの国より長く治まってきた国柄です。
世界を体とすると、その頭にあたる国である、とは先人も言っていることで、教祖も日本の特別の位置と役割に言及されています。
(筆者付記
御教祖は、本教神理図で日本を天皇家の先祖である邇々芸命が降臨された国とされ、大敬的(世界からの敬いの的の)国とされます。
自然に世界より敬意の集まる国であり、だからこそ邇々芸命の子孫の天皇陛下が居られるのだとされます。そして世界の中心としての役割があるのだと説かれています。
本教の教義では、世界の五大大陸の人種は、伊邪那岐・伊邪那美二柱から木・火・土・金・水の五色の人種の祖神が生まれたとされます。
その神名や役割などの詳細は別の教書で説きますが、日本は世界の中心と考えるのです。)
こうした神道の歴史を学び理解した本教の教師・教信徒は、神と教祖の心を自分の心として、広く布教に従事するべきと言えます。
(筆者付記
それは、自国を最上位と威張るのではなく、そうした位置に居るからこそ、世界平和に尽くす、という考え方を持つということです。)
従って、社会に於いて、国内のことを卑下し、外国を尊いとする、卑屈な悪習を除かなくてはなりません。惟神(神の心のまま・人が古来自然に信奉している)の大皇道こそが、人が歩むべき真の道なのです。
布教というのは、先ずその悪習を除き、自信が持てるように、教えを伝えることです。
(筆者付記
自己喪失の歴史
現代人の価値観は、周囲を目安にするのは良いものの、その目安に捕らわれ、それを基準に満足や不満を感じていると言われます。
又、周囲の目を気に掛けるのは良いものの、周囲と違う事を考えたり行ったりすることを、恐れていると言われます。
他人は他人、自分は自分と口では言っても、周囲の目を気にしすぎて、結局自分で考えて行動する人が少なくなったと言われます。
他人の様子を気にし、持ち物や学校や仕事を比較して上下を考える等、視野が狭いのです。
協調性はあっても、そうした考えに捕らわれるのは、日本人に多いと言われますが、いつからそうなったのでしょうか。
宗教の歴史についても似たものを感じます。
先ずは6世紀の道教・儒教・仏教伝来時に、次に16世紀のキリスト教伝来時です。
漢字で書かれた仏典や仏像、鉄砲や軍艦やステンドガラスを見た日本人がカルチャーショックを受けた事は想像に難くありません。
高度な文明を持つ人間は高度な宗教を持っているに違いないと思い、他国の宗教を受け入れたのだと思われます。
その辺りから、自分で判断する自信を失って来たのかなと考えます。
しかし、当時よりずっと現代高度な文明に浴している私達を振り返ってどうでしょう。
果たして高度な宗教を持ち、安心と充実の生活を送っていると言えるでしょうか。
他国ほどではないにしろ貧富の差は広がり、富裕者は欲を満たしても、周囲への不審等ない豊かな心で生活を楽しめているでしょうか。
貧しくとも心豊かな生活を送る人を見るにつけ、どうも、文明と幸福度・宗教文化は比例ではなく、反比例のように感じます。
灯台もと暗し、日本には、神道という純朴な教えが受け継がれているのです。)(つづく)