御教誡十箇条(略解の詳解)46
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第五条世は大なる一家なることを
忘るることなかれ3
4)教祖の志2
・宗教家への自覚2
(筆者付記
人を思いやる仁術である古医道と共に物部・巫部家に伝わる、その根本精神である教義の活用の伝導に主体を移す経緯をお伝えします。
より広く世の為になるには、教えによる方が良いと気付かれるものの、簡単に医師を止めるわけにはいきませんでした。)
ご自分の使命は自覚されていたものの、医師として繁多な毎日を送る内に、しばしば不思議な神のお指図を受けるようになりました。
(筆者付記
教祖の高弟、藤江伊佐彦大教正の著書『教祖様の面影』に、その推移について記されているものを簡略にお伝えします。
慶応元年(1865)年に母佐陀子刀自、慶応3年(1867)年国学の師である西田直養翁が、共に73歳で亡くなるのを見送ります。
そこで、この上は親と恩師に報いて、一層世の為人の為に尽くそうとお思いたたれます。
火にも入り 水にも入らむ 世の中の
人を助けむ 道の為には という三大教歌の一つを詠まれたのは、この時です。
それより、書室に閉じこもり一心に著述に掛かられますが、日々病人などが来て治療を乞うて止みません。
薬の調合も出来ませんから、禁厭祈祷の神伝法を施しますが、医薬に優る霊験があって評判となり、著作の暇が無くなります。
教祖は、これでは大事は遂げられないと、出来るだけ患者を遠ざけ、一心に筆をのみ事とするように努められました。
その頃には門人も出来、その指導と共に、朝方まで寝食を忘れ益々著作に励みます。
それでも世の動きは急で、小倉藩も勤王と佐幕の両派がありましたが、徳川譜代でもあり、長州と戦うに教祖も召されて戦線に立ちます。
元々、神医の高評から軍医の格で、水鉄砲で多数の戦傷の消毒の工夫等で活躍します。
教祖は本来長州の高杉晋作等と通じる勤王派でしたが、こうした事に紛れ迫害を免れます。
慶応4年(1868)年に王政復古となり、著書も世に広まるようになり、近隣は勿論木曽路から等も教えを受けに来るようになりました。
明治8(1875)年の冬より、しきりに不思議な霊告や夢見がありました。
始めは禍神か精神のワザかと疑われましたが、一々的中して次々と奇跡が確かに現れた事から、いよいよ天津神事と決心されます。
目に見えぬ 天津神業 目に見せて
人の誠の 道しるべせむ という三大教歌の一つを詠まれたのは、この時です。
是より具体的に信徒を希望する人達への講席を開く事になったのが明治10(1877)年8月です。)
こうして霊的な力を持たれ、神のお指図を伝える事で人を助け、まさしく生き神と言われるようになりました。
そして、神の指図のままに生活されるようになってからは、医師のような世間の仕事をすることが難しくなりました。
その身を教えの世界に置かれるようになったのです。
明治8年の冬からの霊告や夢見は、明治9(1876)年、天在諸神が次々に現れ、教祖の進んでゆく道を指し示されたのです。
・教祖の行動
元より博愛精神の強い教祖は、敬神の心にも富んでいました。
敬神の心を持っている人は、親には孝行、君(天皇陛下)には忠義を尽くす人です。
教祖が教えを以て世を直していこうと思い立たれたのは、世の中が乱れた江戸幕府の末期から新思想等に動揺する明治初期でした。
教祖は幕府の悪政に憤り、一天万乗の君(天皇陛下)に日本の政治を統べ清めて頂こうと考えられました。
そこで、平野国臣や高杉晋作等の勤王を志す人達と往来し国事を談じ、その為に奔走するという時期がありました。
そうした動きは藩に伝わる事となり、教祖個人を特定は出来なかったものの、藩からの他出が難しくなりました。
教祖がそうした藩の動向をみて、自らの行動を変えられたのは、巫部家の先祖の活動の成功と失敗とを比べられたのかも知れません。
・教祖の思い直し1
『古来、物部・巫部の家は、神教・神術・古医道を以て世に貢献してきた家柄である。
それに比べ、今の活動は、武力に頼ろうとする事であり、国民の幸福という目的は一緒でも方法が違う。
先の平和な手法を以て世に尽くした祖先は、その目的を全う出来、武力を以て世を正そうとした祖先はその志を全う出来ていない。
(筆者付記
物部・巫部家の祖先は、皇室の祖先邇々芸命の兄である高祖饒速日命です。
皇室が三種神器を以て政治を司り、物部氏は十種神宝を以て神事・古医道を司るように定められたのでした。
しかし、一族は大和朝廷の兵権を司ることとなり、その本来の役割から仏教の受入れに反対し、蘇我氏との武力抗争に敗れます。
巫部家21代の大椋命は、物部守屋大連に九州から兵を以て従い、その丁未の乱で行方知れずとなります。
64代の右京常重命は、小倉藩主で大阪城五人衆の一人毛利(森)勝永に属して籠城し、切腹を申しつけらる、等ありました。
反対に高祖以来、2代宇麻志麻知命は、十種神宝で天皇・皇后の鎮魂祭を始められ、3代彦湯伎命は、忌部・占部を率い神事を司ります。
7代伊香色雄命は、開化・崇神天皇に仕え、家伝での疫病平癒の功で大臣となります。
10代宗祖五十言宿祢命は、神と通い、五十言の言霊の神理を明示し、神代文字の元である真知形に精通し、神字・神書の起原を極めます。
12代先祖伊美岐連命は、履中天皇の命で弓矢を賜り、疫病を平癒し神人と称されます。
その後、神功皇后縁で本教発祥の地となる、今の福岡県北九州市の徳力に止まります
16代開祖兄奇宿祢命は、神に通い、雄略天皇の難病を平癒し、神を和める意の巫部の姓と、神徳は日月の如しの意の家紋を賜ります。
51代太郎太夫高光命は、弘安4{1281}年元寇の役で大嘗山川上峰で、異賊退治・人心平安を祈願し、歴史の通りに成就します。
その時、神鏡と共に大巫司を賜り、大宮司となります。
是等、両極端のような事例は、教祖まで77代の歴史の中で、ここでは挙げませんが、まだあります。) (つづく)