先月号の主題が『神道の在る無し』となっていましたが、『神祖の在る無し』が本当です。
訂正と共にお詫び申し上げます。
自然の道 382 管長 巫部祐彦
命の大切さ
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
死刑になりたい
御教誡の続きの原稿を準備している時に、8月20日に東京・渋谷で起きた傷害事件がテレビ報道されていたので、題を変えました。
19歳の娘とその母を包丁で刺した中3の少女が話した言葉が、「死刑になりたいと思って刺した」とのことでした。
今年の1月8日に、東京・渋谷区代々木のの焼き肉店の店長を人質に立て籠もった28歳の男性の言葉も似ています。
「捕まって死刑になれば…」でした。
昨年10月31日に、東京都内を走る京王線車内で『ジョーカー』の格好で無差別殺人未遂事件を起こした24歳の男性も似ています。
「人を殺して死刑になりたかった」でした。
この少女は、今回の事件は練習で、本番の目的は、嫌いになった自分の母と残される弟を殺す事だった、との事でした。
今日見たテレビのコメンテーターの一人は、
「実は自分も反抗期にはナイフを4〜5本隠し持っていた」と話していました。
人は誰でも大同小異で、程度の差こそあれ、暗いことを考え、それが暴発すると死傷に繋がる可能性を持っているのかもしれません。
取り返しのつかないような、結果になってしまう人がいるのは、とても残念です。
神祖や家族の守り
しかし、多くは暴発の前に運良く気持ちが転換出来たり、自制出来たり、自制出来るように成長したりするものです。
そうした暗い心を持っていたことさえ、忘れる人もいるでしょう。
運が良かったのは神や先祖のお陰かもしれませんし、少なくとも普段の両親や家族の互いの思いやりが勝ったのだとも言えます。
一昨年の8月28日に、福岡市中央区の商業施設で当時15歳の少年が、21歳の女性を数回刺して殺害した事件がありました。
この少年は、幼児期から家族からの暴力や性や言葉での虐待を受け続けてきたそうです。
調べれば調べるほど悲惨極まりない話に、胸が痛みます。
一番辛いのは被害者とその家族で、加害者は犯罪への罪が許される訳ではないものの、悲惨な経歴を持つ人が多いものです。
精神的な障害や悲惨な生育歴からの犯罪は、本人だけではなく、本人を取り巻く家族や社会制度等の環境にも責任があるのです。
命の大切さ
コメンテーターもただ悲惨な被害者に同情して、加害者を責め続ける人も、そうした瑕疵の点検と補修を主張する人もいます。
今日のテレビでは、命の大切さについて注意を喚起する人がいました。
「死刑になりたい」と言うのは、自分の命を軽く見てしまうような、人生を息苦しく感じている人なのでしょうね、とのことでした。
自分の命が軽いと思えば、他人の命も同じように感じ、他人の命を奪うのに躊躇が少なくなる、ということなのでしょう。
となると『死にたいなら自分一人で死ぬ方がよほどましなのに…』と傍目から感じるのは、正確ではないのかもしれません。
自分の命への軽視が、他人の命も同じで、虫でも踏み潰すように、やってみた、ということなのかもしれません。
そういう考え方があることは理解出来るものの、それは見過ごすことの出来ない、途方もない考え違いです。
命の大切さをどう伝えるか
先ず、死にたいならお一人でどうぞ、ではなく、自分の命の尊厳を自覚出来なければならないことになります。それには、
医科学の見地から、命が成り立つに当たっての不可思議な精妙さや、それに感動し、喜びの感情に気付く事が大切です。
そんな精緻な幾万・億・兆もの分かれ道を正確に辿って今の自分があるという、幸運に気付くことです。
又、酷い親でも子を思う気持ちを持っているものですが、心の障害やその時の精神状態から間違った形となる事に気付くことです。
又、大自然なる神やご先祖から、幸せを願われている事に気付くことです。
自分の子を持てば分る事ながら、子や孫に対しての苦労は、実は本能として喜びに転化するものです。
酷い親や家族は、貧窮や心身の障害で、その感覚が正常に働かなくなっているのです。
すでに、親や家族から酷い扱いを受けた人は、そう簡単に受け入れられる事ではないでしょうが、それは真実なのです。
科学でも証明出来る、全ての生き物が持つ子孫への本能的な愛情なのですから、時間を掛けても少しづつでも受け入れたいものです。
仕事仲間でも、駄目だと思われる部分が多い人でも、必ずある良い部分に気付けば、その長所を仕事に生かすことが出来ます。
親や家族も、酷い所が沢山在っても、良い部分が必ずあるものです。
先ずは、社会や自然の厳しさもありながらも、本来の暖かさに気付く事が一番です。
社会や自然への気付きだけでも十分に人生を楽しめ、命の大切さに気付く事が出来ます。
次は、親や家族の良い所を見いだせれば、寄り添ってあげることが出来ます。
出来れば数年は無理でも数十年後に、もしその良いところに気付き寄り添えば、素晴らしいことです。どう寄り添うか。
黙ってそばにいてあげたり頷いたり、出来れば良いところを口に出して褒める等、いろんな工夫を楽しむのはいかがでしょう。
そうした心配りが出来ることで、より深い真の命の大切さに気付く事が出来ることでしょう。