世界平和・疫病退散・諸災害鎮静祈祷
(古神道・神理教を“本教”と記します)
昨年に続き、今年も造化宮参籠を果たすことが出来、大変有り難く思っています。
昨年の21日間に比べ、今年は7/3(金曜)夜〜12日(日曜)の9日間としました。
昨年は長かったので、新月で真っ暗闇もありました。
今年は月齢が10.9日に始まり、満月を経て20.9日の半月で終えたので、普通の雲なら明るく、登り降りも足下が確かで助かりました。
梅雨の時期ですから大雨もありましたが、暑くもなく、思ったより楽に過ごせました。
*参籠の行き帰りと山内巡拝
薄暗い早朝や夜道を歩みながら感じたことは、死者か生者かは分かりませんが、目には見えないものの、沢山の人の息吹でした。
今年ご一緒したかった方々のお心や、先人たちの御霊を感じられるように思いました。
山内巡拝や登り降りの時も、片側通行をしなければ通行妨害になりそうに感じることに不可思議さを覚えたものです。
目には見えないものの、そうした沢山の心が一人或いは二人・三人と連れだち、楽しそうに語り合いながら進む流れが感じられました。
山内巡拝は、松村靈台先生・造化宮・大元稲荷・巫部家奥津城・教祖と教母の墓前・経勝翁他の先祖・萩尾の歴代管長墓前と進みます。
そうしたお心や御霊も、巡拝・ご挨拶に行き通っているように感じました。私自身も一人ではなく、ご一緒する心を感じ、縁日のように楽しく心が浮き立つ気持ちになりました。
*祈祷の目的
昨年は、御教祖に倣うとはいえ、萬国統一世界平和大祈祷が初めての事でもあり、肩に力が入ったものです。今年は、表題にあるように、世界平和に加え、流行病である新型コロナの平癒を加える事にしました。
又、高校時代の同級生との話の中で、今地震や津波や大水が来たら大変だから、是非祈って欲しいと言うのも成る程、と加えました。
それでも、九州・中国・中部地方を中心に、河川の氾濫があったのは、力不足で申し訳なく思います。
同級生には、自分の親が住むこの地区だけは、殊に念を入れてコロナも災害もないように祈ってくれ、という人もいました。
又、祝詞と読み方を教えて貰えば自分も祈りたい、という人もいたので、4月号を個人用に変えて伝える事もありました。
一緒に祈る人が、一人でも増えることで、言霊の力も増すことですから、有り難いことだと思います。
*毎日の日課・「神道の悟り」作成
毎日の日課は、ほぼ昨年と同じで、朝4時〜5時に起きて下山し、6時半からの教祖殿・本殿での朝拝を、参拝者や教職員と行います。
家の霊殿拝礼・朝食の後、幼稚園・保育園・大教庁を回り、あれば仕事の打合せをします。
9時過ぎには徳力山に登山して造化宮の水を替え朝拝を教祖殿・大教殿での祝詞を繰り返し、加えて神理賀詞を奏上します。
今年は疫病退散が加わりましたので、神理賀詞の前に人体賀言も加え、祈念詞・神言を、昼間は太鼓も使って奏上します。
終わると、大教庁での昼食の降登を挟み、「神道の悟り」の小冊子に取り組みました。
新型コロナ騒動の影響で、参拝者も殆ど無く、ほぼ完成させることが出来ました。
この神理誌が届いた時には、新式の製本まで出来る印刷機で作製し、皆様にご披露できるかと思います。
午後4時半位から、下山するのに先に述べた順番で巡拝し家に戻ります。
夕食・沐浴後は7時過ぎに造化宮にて、今年は一人での夕拝でした。
清祓・大祓の後、神理賀詞又は人体賀言を奏上し、疫病平癒と諸災害の鎮静を祈り、神宝を以て世界の全てを祓い活性を祈ります。
その後、鎮魂を行い、本院・日本から世界中をイメージしながら世界平和を祈念し、11時頃の就寝となります。
7月12日、午前中は大元稲荷社の夏越の祭りを終え、午後9時過ぎまで最後のご祈祷を行い、下山させて頂きました。
来年も、健康その他の条件が許せば、7/2(金曜)夜〜11日(日曜)の9日間行いたいと思います。
御教誡十箇条(略解の詳解)39
第四条禍いを避け病の癒ゆる厚き神徳を
忘るることなかれ8
4)信仰の正邪2
*迷信2
(筆者付記
筆者は本教が至上の教えだと思いますが、私たち教信徒は、ただそれを信奉すれば良いというものではありません。
この教えを活用して日常に活かさなければ、絵に描いた餅で終わってしまいます。
本教の傘の下に入ったからと、例えば七罪のの一つである怠りに囚われれば、災禍や病や貧窮等のお知らせを受けることになります。
その時、教えを理解していれば、有り難い!どこが悪かったか考えよう、となるでしょう。
しかし、理解を怠ると、教信徒なのになんでこんな目に遭うのだと反発したり、神などいないと投げやりになったりしがちです。
例えば時折ここでも述べる『幸福への道程』等は決して難しい教えではありません。
本教の教えを学び、自身の信仰が深まるよう心を開き、心身共に神祖に近づき、波長を合わせるよう心掛けたいものです。)
*信仰の分かれ道1
信仰の対象によって、家族や友人とも、心は千々に別れます。仏を拝めば釈迦を思うし、耶蘇を信じればキリストを思うのは当然です。
しかし、仏教の原理を求めれば世を厭って逃げ腰となります。また、キリスト教を求めれば、人と切り離された天の神ばかりに注意が集中し、宇宙人のような神と牧師だけが尊敬の中心となります。 (つづく)