御教誡十箇条(略解の詳解)38
(古神道・神理教を“本教”と記します)
忘るることなかれ7
3)誠とは
*誠の人
(筆者付記 誠の本言
誠は本教の指針となる言葉であり、解釈としての本言(その言葉の持つ本来の意味)は、幾つもある中で、その代表的なものを紹介します。
それは、天津・言で、天なる神が言われた事、即ち神の意志となります。
私達の先祖の大元である神の意志、それはその子孫である私達が誠の心として持つべきもの、ということになります。
私達は、神の僕など隷属する存在ではなく、この世を神世にしようとする意思を、血の繋がった子孫として共有しているのです。)
社会一般に、誠の人は、他と争わないが真面目が取り柄だけの社会の為にも用を成さない人、と捉えている向きもあります。
又、正直ではあるが愚鈍とも言える人を以て誠の人、と褒め称える傾向があります。
しかし著者(故小田清彦師)は、正直だけの人を指していません。誠の人とは、知者(世の中に造詣が深い)でも学者でもある人です。
又、相手が金持ちでも貧乏でも分け隔てせず公平であり、一旦約束をした事は神に誓ったと同様に忠実で嘘をつかない人です。
又、一度決めた事は、水火の中もものともせず、良心に添って徹頭徹尾実行し、決して天地の神理に背かない人です。
ただ穏和で正直のみでなく、誠に向かって積極的でなければ、誠の人とは言いません。
*誠の効用
この誠とを尽す人と尽さない人との間には、天地の違いが生じてくるのです。
そこで、先ず教師自らが誠の境地に達し、人をその誠の境地に導く事が肝要です。
この誠の神理を極めるには、先ず神前に跪き額ずく他にはありません。
(筆者付記
神前に跪き額ずくというのは、宇宙に通じる大自然に神としての畏敬の念と、大元の先祖として親愛の情を自ずから持つことです。
信仰者が自然に親しむのは、神祖に対しての取っ掛かりと共通することから、心身に馴染み易いからなのです。)
神前に跪いた時の心を、人や農工作物や商品等、全ての物事に応用して行くと、自然に誠の道を歩む事となります。そこで神は、その誠に添って福祉を与えて下さるのです。
心を磨くには、神信仰に勝るものは在りません。そして、その神信仰によって、日々曇りがちになる心を磨くと、自然誠の道を見出せるのです。
誠の道を見出して世の中を渡って行くと、その誠を神は必ず見ておられるから、禍も病も付け入る余地がないのです。
(筆者付記
誠の道を貫き、禍や病に付け入れられないことを、先ず私達教信徒が信念とすべきです。
しかし、一旦誠から目を逸らすと誠が不実に見えて来るものです。
確りと前を向いて、物事や人との付き合いに謙虚で真摯に取組む事で、誠の教信徒となりたいものです。)
4)信仰の正邪1
*迷信1
信仰の対象は、私たちの大元の先祖である神(天在諸神{てんざいしょじん})です。
(筆者付記
明治32(1899)年7月21日に世界平和大祈祷を終え山を降りられた教祖が出迎えの人々に向かって話された始めの部分に、
「…神と云えば皆同一のようなれども、真神と従神とあり、真神は天在諸神にして、天地に先立て存在し、天地を創造し賜る親神なり。
即ち、神の神たるの神として、霊の霊たるの神理の大神なり。
従神とは地上に現れる神に類する神なり。
或時は神界に入り、又出て人と交通するものにして、人以上の知覚あるものなり。
諾冊{伊邪那岐神・伊邪那美神}二柱の如き、即ち是である。…」とあります。
信仰すべき真神は天在諸神であるのに対し、神徳を働かせて敬愛される従神は配祀諸神と言い換えることが出来ます。)
従って、心にその整理を付けて、先ず天在諸神に戴いた魂を磨くことが信仰の一番の目的であることに気付くべきです。
魂を磨けば清く(=気・寄り=神祖の徳が自然と寄って来る)なり、願わずとも不足のない生活が送れるのです。
それなのに、そこに気付かず真神に祈り魂を磨く事を忘れ、ただ従神に願いを込めて拝むというのは、的が外れています。
(筆者付記
鰯の頭も信心から、というように、それでも心が晴れる場合もあるでしょうし、プラシーボ効果も期待出来るかもしれません。
:注例えば、ただの小麦粉でも、良く効く薬と思い込んで飲むと、本当に効くことがある。
そうした迷い道に入り込むと、アルコールやギャンブルの依存症のように、効果の再来やよりい効果を追い求めるようになります。
そうなると、多くの例に違わず、依存から後戻り出来ないようになるものです。)
信心と言えば時間や金品を浪費してでも、あちらの神社が駄目ならこちらのお寺と、心をふらつかせるのが多くの人の習慣です。
そうした的外れの信心が、正に迷信です。
迷信というものは、ビギナーズラッグ(=初心者が偶々上手く行く)等あると、一層迷い道に入り込みます。迷信は、害はあっても利益には決してならず、そこに陥ると、禍や病が次々に湧いてきます。
迷信する者が家を破り国を乱す発端となるのですから、迷信を深く誡めるべきです。
この悪い習慣を矯正して真の信仰を伝えなければ、美しい国とはなれません。 (つづく)