(おのず)(から)(みち) 355 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

新型コロナの功罪

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

・経過と被害・祈りと心得

 昨年12月に支那の武漢で発したとされる新型コロナは、プロ・アマチュアスポーツから経済活動を大きく阻害することとなりました。

 オリンピックの延期、そして高校総体や野球の中止等、大きな衝撃が続きました。

 皆さまには、(すで)5ヶ月以上にわたり、御不自由な毎日をお過ごしの事と察しあげます。

本院では、春季大祭に、亡くなられた方々の霊魂の安定と共に、()(びょう)の方々の早期回復と社会復帰をお祈りしました。

 毎朝の神拝式では、6月号の本稿に提示した(のり)()に、地震や雨風の災害が重ならないよう加えて奏上しています。73日〜12日の世界平和祈祷でも、その大成を試みます。

 収束傾向とは言え、感染第二波も予想されており、平成14年のサーズや平成24年のマーズに比べ、長期間の用心が必要なようです。

 今回の新型の疫病を、必要以上に恐れる余り他を非難し過ぎ、又必要以下に思って他の迷惑を返り見ない人もいるようです。

 インターネットの炎上のような一方的な非難等を見ると、戦争中のようで(筆者は戦争を体験していませんが)薄気味悪く感じます。

 色んな情報や意見を見聞きし、最後は自分で考えて判断することだと思います。

・転んでも…

『転んでもただでは起きぬ』は、欲の深い人を指すようですが、根性があるということでもあるようです。

 根性とまではいかなくとも、そう簡単には(くじ)けない耐性は欲しいですし、本教人の皆さまにもそうあって頂きたいと思います

 今の時期を、例えば普段とは別の活動が出来るチャンスと、楽しんで頂きたいものです。

 本教は、皆さまの春秋の御奉賛により、お陰様で激減の祭事にも、当面は耐えられると思われます。

 春季大祭が終えた5月は、祭事や行事の一番少ない月で、役員会議やブロック・出張研修会を詰め込んでいます。

 しかし、会議は書面会議となり、祭事と共に研修会も無くなり、本当に(ほとん)ど何も無い月となりました。

 しかし、それに伴う経費が減りましたし、近い将来、遠隔の祭事や会議や研修の半数位は、テレビ画面での催行が具体化しそうです。

 自粛の最盛期?には交替勤務にしましたが、職員会議では、今しか出来ないことをしようと話合い、倉庫や在庫の整理をしています。

 必要だけど少なくなった物に気付いたり、活用出来るお宝が見つかったりと、見直すという観点から良かった部分もあります。

 筆者個人は、会合とそれに伴う会食が殆ど無くなったことからか、体重が減り血圧が下がるという健康を戴きました。

 又、時間が取れた為、例えば全部振り仮名付きの雑祭祝詞が30本以上完成したので、校正・印刷の後、ご希望の教師に頒布出来ます。

 他の行事の合間に、1年以上掛けて数本のペースが、一気に上がりました。

 本教の祝詞は、一般神社の祭神名と祈願名等を奏上するものとは違い、祈願に併せての祭神や成就への教えが()められています

 まだ時間が取れそうなので、帰教(改祭)や神璽・神棚の鎮座祭や、葬儀・霊祭についても取り組んで行きます。

やりかけの教えのお取り次ぎの冊子や小冊子にも進められればと思います。

 (まさ)『…ただでは起きぬ』となりそうです。

 皆さまもそうされていると思いますが、共に変化を楽しみながら、一層励みましょう。

 

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))37

第四条(わざわい)いを()(やまい)()ゆる厚き神徳を

    忘るることなかれ6

2)(まこと)(ごころ)の無い人2

 そして、行おうとすることが一つも(じょう)(じゅ)せずに、目的も不明に長旅(回り道)をして、資金も尽き、()(っち)()(っち)もいかなくなります。

 更には、途方に暮れ、心は(うつ)(うつ)と不愉快で人生を楽しめず、(つい)には病気なったりしてしまいます。

 これは(まさ)に『泣く子の(つら)に蜂』の(こと)(わざ)の通りとなり、(うき)(心配や悲しみ・嘆き)(とし)(つき)を送り、生き甲斐の無い人生となります。

 こうした人は、()(ゆう)(死んだ)後、(すが)(すが)しい霊魂に(かん)(げん)(しん)()付く事は出来ません

(筆者付記)     

 (うれ)いに(おお)われ重い心の(まま)では、神の世界である()(わか)(みや)に浮き上がれないからです。

 ()()(くに)に沈んでいては子孫を守るゆとりはなく、子孫の苦しみを見ては又苦しむ、という悪循環に陥ってしまいます。

 黄泉の国とは、他教の地獄や(れん)(ごく)のように、生前の悪行や心得違いを、ただ(とが)め罰を下され苦しむ所ではありません。

 神道では、生前の間違った行いや心持ちを(きた)められ((ただ)れ・指摘され)、恥ずかしい思いと共に反省し祓う所と考えます。

 死後の本来の幸せは、罪が祓われ四魂が安定し、心が軽くなった時、生前の徳を翼として日の若宮に還り昇ることです。

 そして、()()(くに)では出来なかった、子孫や自分の属していた社会の繁栄を助ける喜びや、或はそれを見て楽しむ事にあるのです。

 その為には、黄泉に行く事を恐れ迷うことなく、生前の間違いを素直に見直し、正しく清らかな霊魂となる事です。それが、神になる近道であることへの神道の悟りの一つなのです。)

 (ゆう)(めい)(死後の霊魂の行く先)は、現世の鏡(生前の罪と祓いと祈り{神気を受ける}と徳の差し引き)(あらわ)れるのです。

 誠心の無い人は、ここに気付かないので、道に迷い、自身の(うみ)(もと)である神の世界に(かえ)る事が出来なくなります。

 そうなると、その因縁が子孫にも巡り来て、子孫までも苦しめる事となるのです。

 それは(いん)(よう)(ひょう)()が整合した(かみ)(ことわり)ですから、そうした悪い巡り合わせに(はま)ってしまっては、簡単に免れることが出来ません。

しかし、そのを(かみ)(ことわり)を知り誠を以て活用すれば良い巡り合わせに転換する事が出来るのです。          (つづく)

令和2年7月号 No.1277  2020-7