(おのず)(から)(みち) 354 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

悟りの前提

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

・勘違いという認識から入る

 一昨年9月〜昨年4月、又今年の2月にも本教の悟りについて、お取り次ぎしました。

 悟りは、魅力的な言葉で、私達の好奇心を刺激しますが、それに近づこうとするほど離れる気がするのはどうしてでしょう。

 それは、一つにその前提を誤っていることが考えられます。

 私達は誰であろうと、大なり小なり勘違いをしていることを自覚するべきだと思います。

 本教の教えでは、人は神の(わけ)(みたま)(ぶんれい)を戴いた神の子・子孫ですから、自分本来の感覚は正しいと考えて良いのです。

 しかし、その小ささ(ゆえ)に、知らずに罪に(けが)される(神祖からの気が枯れる=徳が途絶える)部分もあり、その(ひず)みが勘違いとなります。

 筆者は、世界の三大宗教と言われる教祖達でも、人類の叡智から育った信仰を否定した時点で大きな勘違いだと考えます。

 例え本教の御教祖であろうと、宇宙の真理に比べると、多少の勘違いはあるでしょう。

しかし、悟りとは結果ではなく、その勘違いを一つ一つ正して行く過程・道程であり、それが人類・日本民族の叡智なのです。

 御教祖が(もの)(のべ)(かんなぎ)()家と古神道の叡智を大成した本教は、神・悟りへの、最も近道を提示する教えだと筆者は(とら)えています。

・知り得た認識から入る

 本教だけでなく、私達は生まれてこの方、勘違いも含めて色んな認識を得ています。

 自然の優しさと怖さ、社会からの保護と迫害、人の好意と悪意、社会や人との付き合い方、言葉や道具の使い方、(うん)(ぬん)

 この人だけを信じていればいい、と思っても寿命がありますし、社会や自然も長い目で見れば変化して行くものです。

 変化が真理とすれば、自己の心だけをそこに留まらせると、その心はただの()(しつ)り果て、生きて行くのに都合が悪くなります。

 真理は、変化の波も含まれていると考えられるからで、居直りはお(すす)め出来ません。

 自分で(つか)んだありとあらゆる知識と事象を(まと)め、先ず自分なりの悟りの法則を考えて見るのは、積極的で素晴しいことだと思います。

 そして、そこで終わらず、人類・日本民族の叡智、出来れば本教と照らし合わせ、勘違いを正す判断を頂ければ、と思います。

 

家族や部下の病気災難の受止め

 以前お話しした事ですが、例えば家族に障害者が居た時、その人が私に代わって家の罪を()()てくれていると本教では考えます。

 だから、そうした人を恥と思い邪魔者扱いするのではなく、家の宝と思いましょう、との教えをお伝えしたことがあります。

 それは、目下の家族や部下、或は目上の家族や上司に対しても、病気や災難・失敗した時に同じ様に考えるべきだと思います。

 私達は、自分が注意をし・教えてやったのに、守らない・出来ないからだと思ったり、つい笑いものにしたりして、突き放ちがちです。

 しかし、その人達は、その団体や自分の罪や過ちを代わりに背負ってくれているかも知れないことに、思いを寄せたいものです。

 (こと)に目下の家族や部下が病気災難・失敗時は、自分の過ちや心得違いが原因かも、くらいに謙虚に受け止めたいものです。

 しかし、これも別の一面からも見ないと、責任感が、ただ自分を暗い道に追い込むだけになってしまいます。そこで、

 (かげ)()(なた)に支えて下さる人達の苦労を無駄にしないように、自分の生活や仕事に生き甲斐楽しみを見出したいものです。そして、

 その果実を苦しんで居る人達とも分かち合う喜びを、楽しむようになりたいものです。

 

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))36

第四条(わざわい)いを()(やまい)()ゆる厚き神徳を

    忘るることなかれ5

1)(ひゃく)(なん)(しょう)(じょ)(しょ)(ぎょう)(じょう)(じゅ)(もと)とは5

(まこと)(大きな知恵と小さな知恵) のつづき

 正直・誠の人は神の心と通じていますから、仕事や事業は良い方向に発展して行きますし、愉快に楽しむことが出来ます。

 心が常に愉快であれば、()(わずら)いも少なく、病み煩いが少なければ、それは心身の健康の(かて)となり、従って長生きも出来ます。

 又、その家は益々富み栄えて、国の為、周囲の人の為にも尽くすことが出来ます。

 正直を貫き、神気を戴く事を心掛け、誠を尽くすことが、御神徳と開運を招くのです。

(筆者付記 

 即ち、小さな知恵とは知恵や権力や財力を持つ知恵です。大きな知恵とは正直・誠を貫くことで、自然にそれらの有る無しに関わらず、真の幸福を得られるのを知る事です。)

2)(まこと)(ごころ)の無い人1

 心に誠が無い人は、(ちゅう)(自身の属する家族や学校や会社等の社会で役立ち感謝される充実感や自己実現の楽しみ)を知りません。

 又、(こう)(親孝行が出来る有り難さ)も知らず、親や祖先やその大元の神に奉仕する喜びを知りません。

 そうなると、親の守りも君(天皇陛下)()(けい)も、神の()(たまの)(ふゆ)も受ける事が出来ません。

(筆者付記

 親(祖先)・君・神は、それでも恩恵を発し続けているのに、気付かずに(みずか)罪の(から)(かぶ)()(かえ)しているのです。神は親と同じですから、何があっても見捨てることはありません。

 余り(ひど)いと、親と同じく(あきら)める時期があるかも知れませんが、感謝や信仰心を取り戻し、罪を祓うと同時に、又()(ふゆ)は浸透を始めます。)

 心に誠が無い人は、強風から互いに身を守り合う森林に生えているのではなく、野中の一本立ちの木のようなものです。

 周りに支え合う木もなく、ぽつんと生えるような、心細い状態に(おちい)ります。

 誠心が無いのですから他人から信用されず、あちらに行っては突き放され、こちらに来ては(うと)んぜられます。       (つづく)

令和2年6月号 No.1276  2020-6