本教の疫病平癒の歴史と活用の一つ
(御教誡は、一連の題が終了後再開)
(古神道・神理教を“本教”と記します)
疫病平癒
今、新型コロナウイルスは国の内外に交通や経済やオリンピック等の行事に、大きな混乱をきたしています。
個人また本教として、何とか役立つ部分があればとお考えの方もおられることでしょう。
振り返れば本教は、開化・崇神天皇に仕えた七代以香色雄命は、十種神宝を以て疫病平癒等の大功をなして大臣となりました。
又、十二代伊美岐連命は、履中天皇の命で全国に蔓延した疫病を平癒し、今の徳力の地に留まることとなりました。
神宝や祭事・神術と日本独自の古医道(後の皇国医道)を活用する先祖は、御教祖を含め何人もおられます。
今こそ本院は元より、教会・教師・教信徒皆さまと一丸になり、平癒と共に一層の世界の平和を日々お祈りしましょう!
例えば毎朝夕にお唱えする祈念詞の前詞に、
「斯く天在諸神・配祀諸神・産須根神の御前に(某月某日・朝・夕の)御祭仕え奉り、別けては大国主神・少彦名神・教祖神と御名を称し、コロナとう流行り疫病をし、鎮め給えと祈み奉り筒、称え辞竟え奉る」は如何でしょう。
これを前詞にお使い頂き、言霊の力を一層発揮して世に役立つよう心掛けましょう。
世界平和を祈る心が増える事でそれが実現して行くように、疫病平癒を祈る心が増える事で、それが顕に幽に働くものなのです。
宗教の心-令和二年二月九日-大元稲荷初午祭
・神道の優秀性
初午での話を少し深めてお取り次ぎします。
宗教心は大切ですが、えてしていかがわしい団体の勧誘に利用される言葉でもあります。
本教では次のように考えます。
宗教の心とは、本来人の心の中に平和を建設しようとするものです。
宗教は祈り・信仰に留まらず、この世を神世とする、即ち世界平和を目指すものです。
世界平和を目指す宗教が戦争の原因になる事があるのは、何故でしょう。
同じ物を食べ続けるのは良くない中で、五穀の内で、一番毒性の薄いのは米だそうです。
神道を含め、清濁混じる現世のどの宗教にも多少の毒性は残り、腐敗もあるものです。
その中で、御教祖は、神道は米であり、他宗は麦や豆のようなもの、と比較しています。
米食の優秀性のように、純粋性の高い神道が、腐敗しにくく柔軟性を持つと考えます。
・宗教の定義
宗教は教義・教祖・組織も三つが揃ったものとの定義があるようです。
しかし現代の神道は、多くの神職が敬神尊祖という教義の本質を忘れています。又、
教祖とも言える天之御中主神・伊邪那岐神・伊邪那美神を神徳や歴史に止めています。
それは、天照皇大神や天忍穂見命や邇々芸命や饒速日命も同じだと感じます。
そしてただ組織のみに留まっているのではないでしょうか。
神道は宗教の基本を備えた信仰文化であり、
本教にはそれを合理的に神理として宗教に高め、生活に生かす手法が伝わっています。
・神道と他宗との違い
神道の基本的な考えは、敬神尊祖を否定する他宗にも受継がれている故に、似てはいますが、実は大きく違います。
キリストや釈迦の教えは、宇宙人のような天才が神仏として、過去の信仰を否定、或いは塗り替える、として出来たものです。
日本の神道(=人間本来の信仰)は、人に物心がついたと言われる一万年位前から、言語と同じように、段々と形造られたものです。
ああでもない、こうだろうか、と繰り返しあちらこちらで、話し合われた事の今の結果(=人類・日本民族の叡智)と捉えます。
古くて新しい、これからも時代に合わせて生きる知恵を分かち合い続けるものです。
またそうなるように、私達が努力を楽しむものであろう、と考えます。
・宗教は宇宙の真実をどの程度把握しているか
この話は、筆者の高校時代の同級生とのラインでの遣り取りからの抜粋です。
「宗教や科学は宇宙の真実・悟りをどの程度把握しているか」を推測する話が出ました。
「宇宙の元素の5%しか把握して人類は、宇宙の真実・悟りもその程度しか把握出来ない無知な動物に過ぎない」と言うのです。
それに対して筆者は、前頁の話と共に、
「今、何%真実に近づいているか、分からないけど、その方向に真摯に取り組めれば、安心にも近づけると思う」と応えたものです。
筆者に言わせれば、何%真実に近づいているか、等どうでもよいことです。
これも、一昨年9月から昨年4月に掛けてお取次ぎした、本教の悟りと関連しますが、基本の方向性が確かな事が大切です。
私達は、誰であろうと大なり小なり勘違いしている事に気付く事が、第一歩です。
言い方を変えると、完璧な人間等いない事に気付く事です。
それを敬神尊祖の具体化等、神道の叡智から真理・悟りに近づき生活に活かせれば良いと得心するのが一つの悟りなのです。
本教では人は神の直系の子孫ですから、動物とは一線を画すと考えます。
常に神に近づき、神世を築こうとするのが、動物と違う人の本性だと考えます。
・本を軽んずるな
末のみに重きを置かば自ら覆るという教えが本教にあります。
筆者は本教を知らない囲碁の師匠から同じ様な言葉で諭され、恥ずかしい思いをします。
即ち、囲碁の本質である本を求めれば勝とうとぜずとも勝てるのに、勝ちという末を求めに行って自ら負けていると指摘されます。
六十歳を越えて習いだし、アマチュア三段から六段になっても、まだ末を追いかけている部分が多くある、ということなのです。
教えも同じ、年を取っても尚奥にあるお道の本へ、共に進んで行きましょう。 (つづく)