(おのず)(から)(みち) 350 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

悟りの深め方(()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 

*悟り

 一昨年9月から昨年4月に掛けて、本教の悟りについて、お取り次ぎしました。

 悟りは、目安や道筋もなく無闇な荒修業で心身をいじめ抜いて得るのは、先駆者としては尊敬しても本来の手法とは思えません。

 又、不幸や病災の中から偶然のように悟り(しん)(けい)辿(たど)り着く人もいるようですが、本来の道筋とは思えません。

 そうして悟り神啓を得られる人は、神仏の導きの一つとして(ぎょう)(こう)かも知れませんが、普通の人には出来ません。

 悟りは、その気になりさえすれば、大部分の人が得られるべきだと思いますし、それは先日のお話しのように可能です。

 悟りへの安心出来る目安や道筋があれば、それに添って自分の言動を確かめ深めて行くのが日々の修業と言えます。

 御教祖が難行苦行は要らぬ事、と教えられるのはこうした(ことわり)からです。

 私達は、悟りの為に特別に時間を大幅に()くのではなく、現実の生活の中でそれをどう受け止めるのか工夫するのが修業です。

 悟りは、修業の目安や道筋を理解し、生活に活かしつつ深めて行く事だと考えます。

 

*悟りを深める気付き1

 前回は、基本的な考え方についてでしたが、悟りへの気付きはそれを元に身辺の色んな所に数多く転がっているように存在します。

 そんなに難しいものではありません。

 例えば、橘田先生が、大祭の朝の教話で

『目に見えるものと見えないもの』についての話しを分かり易くされていました。それは、

「心は誰にも見えないが、(こころ)(づか)いは見える。

思いは見えないけれど、思い()りは見える。

 心も優しい思いも、形になって初めて見える。その気持ちを家族へ、ご先祖へ形にしよう。」と、お取り次ぎされていました。

 目には見えないけれど、形や声になる前の(こころ)(づか)いや思い()は見える、(すなわ)ち目に見えるように感じ取れる、ということです。ならば、

 そうした目には見えないけれど感じ取れる思い()で周囲の家族や社会の人の心を(あたた)めると、自分も心も底から温まります。

 そこで、(こころ)(づか)い・思い()りをもう一歩進めて、形や声にしましょう、と言うものです。

 正に御教祖が伝えられる神道の究極の目的、『この世を神世とする』ことで(みずか)らも幸せ・安らぎを得るという悟りに近づけるのです。

*悟りを深める気付き2

 もう一つ、故瀬戸総監の教書『神理入門』の解説、(みそぎ)(はらい)についてお取り次ぎします。

(みそぎ)(はらい)と一口に言っても同一のものでなく『自』と『他』の違いがある。

 は自力を持って(注:)()ぐもので、は神という他力にすがって罪を祓い除くもの。

注:身を()=一般的には、滝に打たれたり水に(つか)る事を言うが、例えば蜘蛛が巣を張るような居心地の良い環境を一旦白紙に戻すような事。

 昼のことは一旦忘れて夜眠るように、今まで積み上げて来たものを、思い切って神にお返しする事。翌朝は前日の経験を清々しさと共に、より多くの神徳と共に返して戴けるもの。

 喜捨や奉仕もその一つで、損をするようで、実は気づかない自分の罪を取り去る勇気を発揮し、結果的に御神徳を戴ける事。

しかし、意味は別個にあっても互いに綿密な関連があり、(はらい)(みそぎ)によって進められ、によって深められてゆく。

のないは神の力を受け(がた)く、のないは神と結びつき難い。」とあります。

は、自力と他力のように、陰陽一体で離れられないものという教えです。

神道本来の教えは、他力である神の力に頼りながらも、自力で悟りの道筋を進んで行くものなのです。

は、その悟りに納得して自力の勇気を以て身を()ぎ、他力の神により更に祓って戴くことで、心身を澄ませる道筋・手法です。

(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は、()(あら)せで、人が本来持つ神の心を(おお)う罪を取り除く、です。

小さいけれど神と同質の霊魂に立ち帰ることで、神と同化出来るのです。

次の御教誡にも多くの悟りがあります。

 

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))34

第四条(わざわい)いを()(やまい)()ゆる厚き神徳を

    忘るることなかれ3

 

1)(ひゃく)(なん)(しょう)(じょ)(しょ)(ぎょう)(じょう)(じゅ)(もと)とは3

(筆者付記

教師・教信徒が悩み苦しむ人にしてあげられること2

(前回の流れ

同じ神の子孫でも、幸不幸に分かれている。

又、同じ貧窮でも、高潔な心を保てる人と、犯罪に手を染める人がいるのはどうしてか。

それぞれの御先祖が、罪を祓っているか・徳を積んでいるかの違いではなかろうか。

資産や性格等が同じような環境の中で、同等の善悪を行っていても、幸不幸の差が生じるのは、先祖の守る力の有る無しによるのである。)

不幸であり、犯罪者となる人の祖先は、きっと迷っているのでしょうが、本人方は多分不条理と不満を感じていることでしょう。

そこで、私たち本教の教師・教信徒は、こうした方々の悩みにどう応えるものでしょうか。

 第一に、その悩みを出来る限り口を挟まずに(しっか)りと聞くことです。

 そして、同情するのではなく、その人になったつもりで何をすれば良いのかを一緒に考えることです。

 悩みを相談することは、八徳の一つの自白であり、口に出す事で問題点が整理され、問題を共有することで、随分楽になるものです。

 第二に、話を変えて両親や御先祖の事を聞いて見ることです。

 生きていれば孝行の大切さを、亡くなっていれば家の神棚を通して祈る大切さを伝えます。

 出来れば御祈願をし、その後清祓や先祖拝礼詞の使い方をお取り次ぎします。 (つづく)

令和2年2月号 No.1272  2020-2