(おのず)(から)(みち) 344 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))30

 

第三条の政令にそむくことなかれ5

8)まとめ(第三条の概略・筆者付記)2

*信仰の念の有無

 神への信仰の念(意思)が有る人は、嘘をつかないし、つく必要がありません。

それは『神は、座っていようが寝ていようが、常に私達の身の前後に付き添い、お守り下さっている』と信じているからです。

 反対に信仰の念が無い人は、自身や他人に嘘をつきがちです。

 それは、自分以外の神や先祖に、その存在を含め、正義や信頼からの安心を見いだせないからです。

 そうした人は、他人は利益誘導の為に嘘を付くものと思い込むことから、自分が正直を通す意欲を失い、嘘をつきがちとなるのです。

 本能が嘘はつかない方がいいと訴えていると感じていても、その根拠を見失い迷っているのです。迷いの(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は『(まが)()』で、多くは善悪の尾根から悪の方に転げ落ちる事になります。

 そこで居直って性悪説から自分の正義を保とうとするのですが、それは矛盾しています。

 神や他人が信じられないことから性悪説を取り、そこから自分の中に正義を見付けようとするのは、本末転倒です。

 

 正義があるとして、それが自分だけのものと考える事は、独善の(そし)りを免れません。

 自分の正義だけでなく、他人の正義も認めた方が自然で理に(かな)い、結果的にも楽ですし、自分の正義感も曖昧さが減じます。

 古神道では、人は神の子ですから、生まれながらに、正義感や秩序感や自主性を持っていると考えます。

 勿論、祈りや信仰心もその本能に含まれていると考えます。

 今は政令には(そむ)いてなくとも、自身以外の神や祖先の目を信じられない人は、判断基準が自分だけなので、(こう)(はい)が不安定です。

 そして『人の居ない所では誰も見ている者はなく、聞く者もない』との思いに迷い込み、嘘をつき政令に違反する事になります。

 神への信仰の念がある人は、嘘もつかず政令に背かないものなのです。

 逆に言えば、政令に背かない真の理由は、神への信仰の念・心が有るからと言えます。

 心が正しければ正しい信仰が出来ます。

 そして、信仰が正しければ政令の善悪が見定められるので、善なる政令に背くことはない、というのは、普通に行き着く結論です。

 善意ばかりに見える社会にも嘘はあり、欺瞞ばかりに見える社会にも真心はある。

 どちらで良い目にあっても、酷い目にあっても、先ず(ちゅう)(よう)を冷静に求め、注意はしながらも信頼の方角に舵を切りたいものです。

 嘘をつくことを正当化するような事は、是非避けたいものです。(つづく)

令和元年8月号 No.1266  2019-8