御教誡十箇条(略解の詳解)29
第三条の政令にそむくことなかれ4
7)神理(しんり)すなわち政令
・善悪を見分ける神理
この神理(神の理)は、天地が分れた時から神律(神の御心・自然なる神の作られた法律)として決められたものです。
だからこそ、今の世に人の脳髄まで備わり満ちています。
そうした神律があるから、現世の法律の網は巧みに逃れることが出来ても、幽冥神界の神律に於いては、決して見逃されません。
悪事や罪を犯した親がいれば、子孫に報いが来て、断絶をもたらすことにもなります。
(筆者付記→罪{悪によって神の分霊である自身の魂が覆い隠された}により、穢{神と祖先からの徳と守りが得られない}の状態となった。)
日本書紀の天地が出来上がる部分で、
「澄めるものは、棚引きて天となり、重く濁れるものはつづきて(=滞って)地となる。」があります。
これは、天より人に本性として備えて戴いた神理神則を説いている大切な部分です。
善い事をして清々しい時は心が浮き立ち足が軽く、自然と自分の身体が天へでも昇るような心地がするものです。
正に、その人の気が日の若宮の親神の元に昇り、愛で賞められようとしているからです。
悪い事をして濁った時は心が沈み頭に物を載せたようで足が重く、自然と自分の身体が水底に引かれるような心地がするものです。
これは正に、その人の気が黄泉の神の元に沈み、責め懲らされようとしているからです。
(筆者付記→帰幽後の日の若宮{=天国}と黄泉の関係は、生前も同じようなものと捉える。
即ち、顕世において日の若宮に近く幸せな人も、黄泉の国に近く不幸な人もいると考える。
人が幸せであるべきなのは、次の理由による。
帰幽後の御先祖は、顕世{=生前}の私達を助けられその幸せを見るのが、正に日若宮に居る霊魂の安心・安定である。
又、不幸な子孫を見ても助けられないもどかしさが、正に黄泉国に居る霊魂の心配・不安定である。本教の目的である、この世に神世を実現させるというのは、こうした意味がある。)
こうした神理神則は、天と地が開けたときより神の御心として、一直線に人間の脳髄となっています。
(筆者付記→脳髄は、そのまま神の分魂{ぶんれい}と捉える。
即ち霊魂は、天在諸神18柱の始めの5柱である、別天神により授けられたと伝えられる。)
・王法すなわち神理
世の中には、外に向かっては天皇陛下を心の元(=王法が元)とするように見せかけながらも、内には他力の信心を勧める宗門があります。
(筆者付記→小乗{上座部=自力}の修業を軽視し、帰依と共にお題目を唱えるだけで救われるとするのが大乗仏教{他力}である。
その双方共に、仏のみを信じれば良いとするので、始めから皇室を崇敬する教義がない。
ここでは、天皇の徳の必要を認めてないのに、利用しようとする矛盾を指摘している。)
是等に対し、日本古来の本教は、王法がそのまま神法で、王法を守れば直ちに御神慮に適う、と教えています。
御神慮に適えば、子孫の繁栄という、この世を神世にする方向への基本が整います。
ですから、常に善を行い徳を積み、神律を違えずに顕幽一貫の皇道を守る事が大切です。
注:顕幽一貫=生きている今も帰幽後も同じ神の道を歩んでいること。
注:皇道=天皇陛下を心の絆とする道。
その具体的な実践として、政令に背かない、と教えるのが、第三条の主意です。
8)まとめ(第三条の概略・筆者付記)
*政令に添う基準
故小田師は、決して当時の政府に媚諂う為にこれを纏められたのではないと考えます。
この三条で感じるのは、昨今の汚職事件からの政治家に対する不信と、そうした政治家が作る政令への反発です。
又、古代ギリシア哲学者のソクラテスが、悪政とその結果と自覚しながらも、その政令に添い毒杯に刑死する話も思い浮かびます。
私達は何を基準に政令に添うか否かを判断すれば良いのでしょうか。本教の教信徒である私達は、その政令が何処から由来したものかを見極める大切さをここで学びました。
大元の神から発せられた教えが残されているか、その政令の目的が真に子孫の繁栄であるか否かが、判断基準だと考えます。
唯々諾々と従うのではなく、この基準を自分で判断すべきです。
*政令の目的と根元
政令とは、法律に添って政府より発令される規則の事で、天津神の配慮と受け取るべきです。
政令は、優れた者が勝ち、劣った者が負ける弱肉強食の世の中にならないよう、神が善良なる国民に注ぐ愛情の一つなのです。
政令は、天照皇大神の皇孫命(直系の孫)である邇々芸命が国民の秩序のために出された物を根元と考えます。
私達は天照皇大神のその又祖先から続く皇室を本家とし、そこに伝わる大恩頼を戴いて、この世に生まれ出たのです。
ですから私達は、過去と現在と未来を通じて皇道(神の道)を守り、政令に従うべきなのです。
*信仰と政令の関わり
神社・教会に草が生えるのは、信仰心が社会的に低下していると言えます。
信仰心が低下すれば道徳が廃り、自己管理が劣り欲に抑制が効かないことから、犯罪が増え刑務所が増え、社会負担が大きくなります。
信仰と政令は深い関わりがあるのですから、本教の教師は政令・法律を犯さないように、この二つの関わりと大切さを教え導きましょう。
本教の教師はその擁護者となり、本教に加入した教信徒は、その教えに添って、常に何が正しいのかを、自分で考えましょう。
私達は、日々つい曇りがちになる精神(心・魂)を、神の前に額づき、常に磨く事に意識を向け、政令に背かないよう心掛けましょう。
(つづく)