自然の道 348 管長 巫部祐彦
御教誡十箇条(略解の詳解)33
第四条禍いを避け病の癒ゆる厚き神徳を
忘るることなかれ2
1)百難消除・諸業成就の基とは2
(筆者付記
*祭の三つの効果
月次や正五九の祭に伺う家で、家運の上昇を感じることがあります。
難病が治ったり取引先が倒産して資金繰りに苦しんだりしながらも立ち直るような、粘り強さを感じるにつけ、次のように考えます。
一つは、神と先祖の御守護を、障害となる罪が消除されたことで、その家への神徳のパイプが広がり、ちゃんと受け止められるからです。
神と祖先は常に子孫の繁栄の為に神徳を与え続けているのですから、祭によってその神徳と護りが伝わる道が通りやすくなったのです。
二つは、自分の心に良くなろうとする向上心と、余裕・自信が育ってきているからです。
現代の忙しい毎日の中で、祭の為の時間を割こうとする気持ちになれるのが、その証です。
三つは、自分の本来の方向性でもある神と祖先の意向を伺い・感じ、それをどうした方法で実行しようかと考える余裕が生れたのです。
人の運は一定のものではなく、波のように大小の上下を繰り返しているものです。
もし、今運が下方に向かい不運であっても、上下のある理を弁えていると共に、
『これは神祖が、何かお知らせ下さっているのではないかな?』と自分に問う余裕が持てます。
信仰心が薄く罪を祓わない人は、
『自分は何も悪い事をしてもないのに、何故こんな目に合わねばならないのだろう』と、思いがちです。そこで、普段の不信仰を棚に上げ、神祖に不満を持ち、
『神などいないし、死んだらお終い』等と広言することになります。
そうした人は幸運時にも、感謝の気持ちを持てず、自分の努力と自己満足に終わらせてしまいますが、それでは、運勢も開けません。
同じ不運に対して、不安や不満を持つのと、自分を見直す機会を戴けたと受け止めるのでは違いがあり、結果も大きく分れる事でしょう。
それは、自分だけでなく他人の不運への見方も同じです。
他人の失敗や不幸を、あんな間違った事をするから、或は考え方をするからだと、突き放し笑い物にする考え方では成長はありません。
神と祖先は他人の失敗を、私達に見せる事で何かを伝えようとしていると考えることで、より大きな神の心を理解する事が出来るのです。
この余裕から出来る自省が幸運を呼び寄せるのは、神祖の認否以前の処世の要です。
*神気
人の魂は神の分霊(ぶんれい)であって、昔から伝わっているように、人は一個の小天地ですから、大天地と同じように出来ています。
人の心(精神)と体は大元の神から戴いた、大元の神と同質のものなので、その心も体も、神と同じ造作をしています。
注:同じ造作=本教の伝えでは、別天神五柱から霊魂を賦与され、次の木火土金水の五行十柱から、身体を形成して戴く、と考える。
神は、御自分と同じ形を造られ、分霊(ぶんれい)を遷されたと考える。
人は満ち潮の時に生まれ、引き潮の時に死ぬのであり、天地の間に充満ている神気を呼吸して生きています。従って、この気が汚れると気分も悪くなります。
世の中で何が尊い有り難いといって、鼻と口より吸って出す神気より尊く有り難いものはありません。
どれほど立派な家倉を建て並べ、資産を積み蓄えても、神気が止まれば、精魂を込めて増やし貯めた物を幽界に持って行けません。
神気即ち空気が一番有り難いもので、家倉や資産を貯めてもそれだけでは、すぐ食い潰してしまいます。ただし、家倉や資産等不要、というのではありません。
注:資産=本教は、一定の安心の為に必要と伝え、不要だからと寄付を勧める事はない。
教祖は、教語の第19節に、
『身代(家倉や資産)と人格と永続(家を継ぐ子孫)が揃って、神の御心に適ったというのだ。…』と教えられています。
つまりバランスが必要ということです。
余談ながら、神気を具体的に戴く方法の一つに長呼吸法があります。
神気はまた日気とも言い、お日様の気を効率的に戴く方法と心掛けの一つが長呼吸法です。
朝、お日様に向かって、夜、就寝時に行う事から、普段も無意識に行えるようになります。
この手法の説明は他の教書・既に行っている教師・教信徒の皆さまに譲りますが、心身の健康の為に是非習慣にしましょう。
*教師・教信徒が悩み苦しむ人にしてあげられること1
色々な事件はあっても、平和で飽食の時代と言われる現代人は、チョットした揉め事やストレスに耐性・抵抗力が低下しているようです。
比較的高い道徳心を持っている国民性の中にも、詐欺や暴力や殺人や違法薬物の使用・売買等に手を染める人が絶えません。
誰も行いそうにない犯罪に、こんな人が何故?というくらい安易に身体と心を穢すのは何故でしょうか。
人は神の子孫ですから、悪い事をしようと思ってする人はいません。
貧窮や欲に染まった時、心が暗くなった時に、犯罪に手を染めるのです。
ただ、貧窮になれば犯罪者になるのではなく、犯罪者になる人とならない人の間に、そんなに大きな差はないのだと筆者は考えます。
犯罪者が異常で、そうでない人が異常でない、とも思えません。
では、差のない人同士の結果がそうした明暗に分れるのは、どうしてなのでしょう。
筆者は、同じ状況になっても結果が分れるのは、神祖の守りの違いだと考えます。
私達が困窮して、御先祖が罪に染まったままで、神からの徳が途絶えた時に、犯罪が起るのではないでしょうか。 (つづく)