自然の道 346 管長 巫部祐彦
御教誡十箇条(略解の詳解)31
第三条政令にそむくことなかれ6
8)まとめ(第三条の概略・筆者付記)3
*政令・自身の環境への見極め
教祖の御歌に、
誠もて 事をなしなば 偽は
この世の人に 捨てられやせむ(桃の一枝)
があります。誠の本言(その言葉の持つ本来の意味)は、天津・言で、『神の言葉・心』です。
他人を疑ってその嘘を見抜こうとするより、他人を裏切らず、誠意を以て自身の心を磨く人は、自然、清濁善悪の区別がつくのです。
そうした人が多数を占めるようになれば、嘘偽り等必要のない、本教の目指す神の世と成り得ることを伝えています。
政令を見極めるにあたり、誠が必要で、盲信とか誘導とかの、皮肉家が落ち込みがちの投げやりな低い次元の意識では出来ません。
政令の正誤を量るのは、先ほど(先月)述べたように、政令の出元・由来が神・天皇の慈愛から来たものかを検証すれば自明です。
私達は仕事や仲間関係から、例えば右翼や左翼と言われる職場や、その傾向のある人達が偏った仲間等と過ごすことがあります。
他からはそう見られていても、そこにいる多くの人は、自分は中庸だ、と思い込んでい
るものです。しかし、その言葉や行動や例えば選挙の投票や応援等は、自分の属する人達とほぼ同じになるのは、おかしな事です。
自分で気付かない内に心が変わるという、洗脳をされているようにも見えます。
ご自分の属する職場や仲間の話もよく聞きながら、例えば政党や投票をする対象を選ぶのは、自分なりの理由があるべきです。
何もかも付き合いや流れで決めていると、いい人にはなれるかも知れないけれど、何も自分で決められない人になってしまいます。
本教の四魂論で言うと、『和魂の融和・協調性ばかりに力点が傾き、自他を振り返る事が出来ない』にならないようしたいものです。
公平と思われるTVや新聞社等でも、その報道の方向から、ある意味政治等の信仰結社との見方が出来る所もあります。
目に見えない組織と言われ、見えないことで世に大きな影響を与えるのだそうです。
おぞましくも、恐ろしいことです。
もし、そこの職員さん達が公平無私をモットーにして記事を作っても、報道しない自由によって簡単に方向を変えられます。
本人が気が付くかは別として、その会社の方針に添った使いっ走りになっているのです。
それは、視聴率やスポンサーにも影響され、不都合な真実は報道されない、口にされない、は、宗教の世界にも感じるところがあります。
本教も宗教法人であるだけに、そうした手法に染まらないよう気を付けたいものです。
(宗教については、H.3009〜3104の…悟り…で述べたのでここには上げません。)
私達は、応援する野球やサッカーのチームで考えても、どうしても所属する地域や社会に影響されるものです。
ある意味スポーツ等は、郷土愛に伴う洗脳も愛嬌とは思いますが、思想や政治や信仰については、洗脳してもされてもいけません。
では、個人としてどう判断すれば良いか。
筆者は、日本文化としての神道信仰を正しく理解し、それを以て誠の心に立ち帰り、そこから物事を見つめ直す事だと考えます。
誠の心に立ち帰る信仰文化を元として、複眼のように角度を変えて見る事が大切です。
自分の仕事の性質や人生の在り方・過ごし方を、本教の大元の神から発せられた信仰を元として判断することです。
そこから政令が真に子孫の繁栄に向いているかに心を向ければ、その正誤を見定められるのです。 (第三条終り)
*神も仏も信じません
紙面が空いたので、数えで65歳になる筆者と同級生達とのライン(携帯やパソコンでのグループ会話)での遣り取りをお伝えします。
徳島県に住む同級生との話です。近くにある四国八十八箇所巡礼のお寺のお坊さんが、
「自分には霊感が全く無く、神秘体験等したことがない」と自慢のように言うそうです。
しかし、屏風に丸を書いたのを見せて、
「丸の中に宇宙が見えるでしょう」とも言うのは矛盾して信頼出来ないとの事です。
更に、先日筆者と同級生の坊さんと一緒に酒を飲んだ事を思い出したのか、「この間、神主と坊主の酔いっぷりから、神も仏も信じなくて良かったと確信した」との書込みでした。
きっと筆者達二人は、記憶外で相当お馬鹿をしたり言ったりだったのでしょう。筆者は苦笑いを堪えながら、次のように書きました。
「仏は知らないけど、
1.神は親の親を遡った大自然なる先祖の大元、親と同じで信じなくても、嫌ってさえも無償の守りを下さる存在だから大丈夫!
拒否のバリアさえ張らなければ、常に守ってくれる存在だよ。
2.私は神も仏も信じないと言う人は、自分を騙そうとしていると思う。
その証拠に自分の良心は信じてるよね。
それは、もう信仰でしょう。
他人を見て信じる信じないと言うのは、人間信仰で、本質は他人と比較しながら自分の心を確かめる事と考える。
人間信仰は、良い時もあるけど、失敗や勘違いもあって不確かよね。
他人よりも、自身の良心と親の子を思う気持ちに目を向ければ、真実は自ずと見えて来るよ。」そこで別の友人から、
「拒否のバリアって具体的にはどんなの?」
と聞かれたので、
「罪で自分の心を覆う事。親や先祖からの護りや徳が撥ね返されて届かなくなるのよ。
少し加えると、例えば本教では七罪と言って、怠り・詐り・貪り・憤り・慢り・憂い・怨み、に染まったままで祓ってない状態なのよ。
親や先祖が徳を伝えようにも、罪に阻まれて受け取れない事。」と応えたことでした。
神が親の大元であるのは、罪のない素直な気持ちになれば、自然気が付く事です。
(つづく)