(おのず)(から)(みち) 340 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

あなたはもう(さと)っている!(補筆)

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

表題への感想

 先月までの悟りについての感想を、以下のように頂きました。

「悟りは、(ぼん)(のう)の無い世界、又は煩悩を減らす為思っていたのですが、そうではなく、積極的に受け止める考え方なのですね。

 神道は、人間への眼差しがおおらかで前向きで、心地よい暖かさを感じました。

 天造教の世界観に共鳴します。

 敬神尊祖を忘れた訳も納得です。」とあり、嬉しく思い、転載させて頂きました。

 この感想にもあるように、悟ったからいきなり煩悩が無くなり、総てが見え、生神のように(あが)められるのではありません。

 悟りの本質が理解出来るから、悟りへの道筋が(つか)め、その道筋に添って進むから、視界が広がり、一層の悟りの明りへ繋がるのです。

 煩悩(=神道の罪のようなもの)は、生きる為に必要なもので、神道の悟りの一つは、煩悩を前向きに受け止め利用する心得なのです。

多様な悟り

・例えば囲碁の悟り

 先月までに挙げた六つは、他宗派にも通じ

る悟りへの大きな柱とも言えるものです。

 しかし、それを形成する為の小さな悟り・気付きは身近に多くあり、気付いた人が周囲の人と分かち合うべきものだと考えます。

 例えば筆者は還暦を越えて囲碁を習い始めましたが、数日前に師匠から、

(かんなぎ)()さん、あなたは勝負に勝とうと思っているでしょう?だから勝てないのです。

 勝ち負けに(こだわ)らず、誤魔化そうとせずに、最善の手を求めていれば、形成が不利に見えていても、大方は負けないものです。」

(さと)されました。しかし、その時筆者は、

「囲碁は趣味なのだから勝ちに拘るのも一興ではないか。負けてばかりでは楽しめない」とも思ったものです。

 考えようですが、職業としての囲碁棋士もアマチュアも、通じる所はあります。

 一つは、異論もあるでしょうが楽しさです。

 職業棋士の生活や責任感という一人だけのものではない勝負の重さは、アマチュアとは違いはあるでしょう。

 しかしそれを乗り越えたときの達成感という喜び楽しさは共通の部分があります。

 二つは、勝ち負けと同時に勝ちへの最善手

を考える事や、その道筋への原理原則という、(いわ)(ゆる)囲碁の悟り・気付きを探ることです。

 そこで嬉しさ悔しさから離れ、一旦勝ちを意識から外そうという、まあ高尚な意識です。

 これは、原理原則より次元の高い、囲碁の悟りの一つと言えそうです。

・その他の悟り

 文化的な茶道や華道や書道・短歌・俳句等、又スポーツの柔剣道や水泳・野球等、総てにその道の大小の悟り・気付きがある筈です。

 そしてそれぞれの悟りには、やはり共通の原理原則があります。

 その原理原則と一旦勝ち負け等を意識から外すという悟り・気付きが互いに刺激になれば、無限動力のように前に進めます。

 そう言えば、後で気付いた事ながら、将棋で昔の歌謡曲にも「♪勝つと思うな、思わば負けよ♪…」があります。

 勝負でない茶華道等でも、

「上手に見せる等の意識を一旦外し、もてなしや心の安らぎへの最善の道を探る事に集中しよう」と、考える事だと考えます。

趣味での悟りを生活に活かす

「勝ち負けや見掛けに(こだわ)らず、誤魔化そうとせずに、最善の手法を求める」という考え方は、実際の生活に活かせる悟りです。

 自分や他人を(だま)し、(くさ)いものに(ふた)をして、その場で勝ちを得るというか事を(おさ)めても、又同様の事件を繰り返すだけで前に進まない。

 それよりも、自他の為に役立つには何をしたら良いかを考え、最善を目指す事が、最終的には自他の永い幸福となるのです。

 その、自他の幸福こそが、臭いものに蓋(=誰か不幸な人が出る)とならないので、より永い安定、社会幸福となるのです。それで最終的には、「金は天下の回り物」のように、社会の幸福がまた自分に返ってくるのです。

 反対に、自他を騙し、臭い物に蓋をするような事の収め方をしていては、その不幸が自分に返って来るのです。

 まあ、その損得は個人では判断しかねますが、日本人はDNAにそうした(ことわり)が強く受継がれているのは確かなようです。

 金品の損得は量れずとも、多分次のような叡智が備わり、量り知れない徳や、結果的に得をすると、知らずに知っている?のです。

 心が豊かになる→人格が向上する→人に好かれる→信頼を得て人望が集まる→自ら求めずとも事業が成功し→金品でも損をしない。

 これも悟りであり、(かみ)(ことわり)言えます。

まとめ

 囲碁の集まりは、大部分の人達が、筆者と同じく勝ちに(こだわ)っているものです。

 その中で勝ちに拘らず、最善の道を求める内に、高い確率で勝ちという結果を得るのは、理想です。筆者はその悟りに少し進み、最終局面の近くまで優勢の時があります。

 しかし、最後の方で勝ちに拘る元の木阿弥となり、あたら好局を失う事もよくあります。

 勝ちたいと強く思った方が勝つと言う人もいるし、勝ちは望まないと思った方が勝つと言う人もいます。筆者は後者のような心持ちになりたいのですが、信仰とも共通するこの部分の修業が必要のようです。

 勝ちたい気持ちは技術の習得に、勝ち負けを意識しない気持ちは精神の修養に、という風に使い分けるのが良いようです。

 人は、例えば宗教や信仰で悟りに気付いていても、それぞれの職業や趣味で、悟り・気付いているとは言えないようです。

 常にどの分野でも、原理原則や一旦拘りから外れるという、悟り・気付きを以て、前に進むことが出来るのです。

 (せい)(せい)()(いく)とか(せい)(せい)()()いう、自然が総ての動植物を生み育て、更に前へ前へと推し進めるように、共に成長して行きましょう。

 そして、職業や趣味での悟り・気付きと平行して、真の柱となる悟りへと、着実に進んで行きたいものです。

平成31年4月号 No.1262  2019-4