(おのず)(から)(みち) 338 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

あなたはもう(さと)っている!5.

  (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

5.つは、(=()(ゆう))後の心持ちが想像出来、欲への対処が出来る、ということです。

・不要になる欲

 以上の四つを踏まえこれを心得ておくと、欲への(しゅう)(ちゃく)が薄れ、現実に無理の不要を知る等、心の持ち方への活用が期待されます。

 他宗派で修業の妨げになる煩悩等といって(さげす)まれている欲は、実は人間にとって必要不可欠なものです。

 例えば1.食欲は生命の維持の為に、2.お酒は緊張の反対の(なご)みの為に、3.金品や土地建物は衣食住の安定した生活の為に必要です。

 また、4.性欲は子孫繁栄の為に、5.賭博でさえも勇気や判断力を磨く為に必要です。

 総ての欲は、破壊や暴力への欲等、実行しては困るものまで含めて、存在する意味があるのだと考えられます。

 この、生きる為には必要且つ喜び・楽しみでもある欲は、死後どうなるのでしょうか。

 以上の1.5.等は、総て死(=()(ゆう).神の元に帰る)後は不要となるのは自明です。

 例えば、1.に関して、霊魂として存在するのに食べる必要は有りませんから、食欲は無くなりますが、不幸なことではありません。

 

 神祖を大切に思う家では、()きたてのご飯を、小さなお敷き等に盛って神前に供えます。

 怠惰な筆者は幼少時、先祖が居ると言われても目に見えないし、この役が面倒臭く嫌がっていたものです。

 或る時父の、神様や御先祖はご飯ではなく、その湯気を召し上がるのだよ、との言葉に、急いで運ばなくては、と思ったものです。

 味わう楽しみが、真心を捧げられるという、より高い次元の楽しみに変わるのです。

 2.も同じで、故人はお酒が好きだったからあの世、或は神の世界で友達とお酒を飲んでいるのでしょうね、は多分ない事でしょう。

 お酒なんか飲まなくても、綺麗な魂同士ですから、充分(なご)む事が出来るからです。

 では、なぜ故人の嗜好物をお供えするか。

 それは、生きている人の、故人を覚えてますよ等の真心を捧げているのです。

 故人は物ではなく、その真心を戴くのです。

 だから是等は真心を形に表したもので、3.等も含めた欲や、その物品は不要なのです。

 一番喜ばれるお供えは、嬉しい事も嫌な事も報告・相談する姿や、うまく行った時のお礼・感謝の気持ちです。

 4.についても、帰幽後は無くなると伴に自由自在に存在出来るならば、子孫やその他の人の行為も見ることが出来るでしょう。

 プライバシーも何もあったものではありませんが、神と同じで生活の一環としてしか見ていませんから嫌がる事もありません。

 まあ、他の悪事と同じで余程異常な行為は心配されるでしょうが、何の事もありません。

 

・欲への(しゅう)(ちゃく)

 ただ、5.も含めての欲への執着に自分を見失うと面倒です。

 過食やアルコール・ギャンブル等、これら総てには依存症という生者の(もう)(しゅう)があり、これが死後も続くと、霊魂は重く(とどこお)ります。

 黄泉国に繋がれているような状態ですから、出歯亀等、到底出来るものではありません。

 しかし、いつもの話のように、本教の教信徒の皆様は、是を祓う幾つもの方法を知られているので安心です。

 生前から、欲を肯定的に認めながらも(むさぼ)らないように気を付け、常に祓いを心掛ければ、心身も健康になります。

 いずれ必要が無くなる欲と悟っていれば、自分の執着心も、一歩離れた場所から冷静に見つめ直す手法が自分なりに(つか)めるものです。

・不要にならない欲

 しかし、無くならない欲、無くならない方が良い欲もあります。

 それは、残される子孫やそれを包む社会への愛情で、これは、余程の過保護で無い限り、少々の執着があっても構いません。

 その執着心が子孫を見守る力と考えるのが、神道の死後観で、霊魂観にも繋がります。

 死ねば生まれ変わるのではなく、その家や社会の先祖神となって、大元の神と伴に後に続く人達を守る、との考えです。

6.つは、幸福への道程を知っている、ということです。

 いつも述べているので、簡易に記します。

1.(しち)(ざい)(おか)さない。2.自分や先祖の(つみ)(はら)う。

 

3.(しん)()を戴く((ちょう)()(きゅう)(ほう))4.(はっ)(とく)を積む。

の四つを連携させた心掛けです。

1.(しち)(ざい)は、(たい)()((うそ))(どん)(ふん)(まん)(ゆう)(えん)整理されていますが、これを犯さないように気を付けます。

2.(はら)いは、(しち)(ざい)の一つにでも触れた時、また(ゆくり)(なく)(=気付かずに)犯したかも知れない罪を、例えば月次祭などで、常に祓うことです。

3.(しん)()を戴くは、出来れば毎日(ちょう)()(きゅう)(ほう)等の手法で、朝日に向い或は本院や教会や神社で深く呼吸を行い、神の気を戴くことです。

4.(はっ)(とく)は、健康・誠実・陰徳・施捨・労役・愛他・克己・自白に整理されていますが、是等を日常丁寧に繰り返し行うことです。

まとめ

・悟りと実践

 以上5ヶ月に渡り、つの悟りを並べさせて頂きましたが如何でしたでしょうか。

 人類が心の奥底に持ち、殊に敬神尊祖を受継ぐ日本人には直ぐ(そば)にあり、本教の教信徒の皆様には、既に御存知の事ばかりです。

 ここでは、教信徒の皆様が既に悟られているのを確認したばかりの事でした。

 他にもあるでしょうが、たったこのつを知っていれば、神道の悟りを開いているのと同じ事です。

 そこで、このつを知っている私達自身には、過去悟りを開いたという人と比べて同等に達しているのだろうかと問うて見ましょう。

 普通に謙虚な人であれば、まだまだとか中程にも達してないと思う事でしょう。しかし、このつを知っていると言うことは、悟りを活かす道筋を得ているのです。(つづく)

平成31年2月号 No.1260  2019-2