(おのず)(から)(みち) 332 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

あなたはもう(さと)っている!1.

         (()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

表題について

 余談から始めますが、以前、調べて見ると昭和58年から5年ほど、『北斗の拳』という格闘漫画がブームでした。

 テレビアニメやゲームにもなりました。

 そこで、この漫画を知らない人でも「お前はもう死んでいる」などの流行言葉や、それを(もじ)った言葉を口にする人もいたものです。

 そこで筆者も、この言葉を前向きに捩り、

「あなたはもう(さと)っている!」を実感して頂ければと、この表題を考えました。

他教の悟り・修業

 他教には、死を()けるような修業や(はん)()教学とか言って、一般人に行えない、或は理解不能で煙に巻くような悟りがあるようです。

 そうした、覚醒者・悟りを開いた人が説く言葉を聞くと、私達も覚醒、即ち悟りが開けるかというと、そうではないようです。

 悟りを開く方法よりも、開いた内容を聞きたいものです。

 ()開いた内容を聞けたとして、多分聞いた瞬間は納得出来た気になるかも知れませんが、多くの場合勘違いのような気がします。

 覚醒者だけでなく、覚醒者から聞いた人も、他に伝えられる悟り、というかそれが世に活かされないと、本物ではないと考えます。

 まあ、悟りの開ける開けないは別にして、心の優しい日本人は、厳しい業をしただけでも、その所業を賞賛する風潮があります。

 そしてその御利益を頂こうと、お(さい)(せん)をあげたりするのです。筆者は、他人任せばかりではなく、修業より生活の中から悟り・生活に活かせる知恵を見出すものだ、と思います。

悟りの本質・目的

 悟りの本質と言うものは、本来そんなに厳しいものでも難しいものではない(はず)です

 悟りは、難しくない言葉や文字で表現出来るものだと思います。

 修業は悟りを開くためというより、心の清浄を保つ手法の一つで、心が清浄であれば、(おのず)(から)悟りは開けるものです。

 宗教の多くは、悟りを目的としているように感じますが、それは正しいのでしょうか。

 筆者は、悟りを自分と周囲の為に、どう活かすかが本来の目的だと思います。

 悟りとは、先ず私達にとっての安心(=本教で言う四魂の安定)であり、次に幸福に向かう道筋を見付けるものです。

 従って悟りとは、見付けて終りではなく、見付けたら先ず自分が歩いて、本当に安心且つ幸せになれるか確かめとらえるべきです。

 次に、その道を周囲の人に伝え、役立てて貰う事だと思います。

 宗教者だけでなく、誰でも悟りを開け、誰でもそれを他に伝える事が出来る事が、本当の悟りだと考えます。

 如何に楽しく幸福に暮らせるかの心の持ち様を見付けるのが悟りであり、それを他の人にも伝えられるのが悟りの本質です。

 (まさ)に、世界が平和になる道筋が示されるもので、これが悟りの目的です。

日本人のかつての常識

 では、そんな悟りが有るのでしょうか。

 悟りは、日本人の叡智の集積である古神道の中に有り、それは多分、日本人のかつての常識・普通の感性だったと思われます。

 例えば、縄文・弥生人は、知って(感得して)いたと思うのです。

 本当は世界中にあった自然の教えが、もう(かす)かとなっているような感じがします。

 微かでも感性として受継がれているものではありながら、言葉で説明出来る人は少ないでしょう。今は、80代を越えて研ぎ澄まされた本教こそが、神の理で説明出来るのです。

 例えば近年流行の散骨や潮流葬等、遺骨を土に(かえ)さずにばら撒く風習が出てきましたが、神道では、常識・感性的に駄目だった筈です。

 仏教やキリスト教は、教義はあってもそのことに触れるものは無いと思われることから、多分善悪の判断はないことでしょう。

 しかし、散骨や潮流葬の旗頭になるのが神社だったりします。

 多くの神主さん達は疑問に思っていますが、その理由を説明出来ません。筆者は説明出来ずとも、感性で良いのだと思います。

 遺体は土に還すのが良いと皆が思って縄文時代から行って来たのだから、それ以外は駄目だ!で過去は良かったのです。

 皆がそう感じている事だから、駄目なものは駄目、で行わなかったのです。

 でも、昨今はその理屈が見あたらないことが理由で行うようになったように思えます。

 現代は、駄目な理屈が無ければ、何をしても良いではないか、という論理がまかり通ってきているようです。

 有神論にしても、かつての常識だったものが、現在ではゆらいでいるように感じます。

 無神論者が神などいない、と言い出すと、その反論に理屈が無ければ、まかり通ってしまう、というものです。神などいない、と言う理屈だってないのに、言った者勝ち、声の大きい者勝ち、の観があります。

 かつての常識も、薄れ果てているようです。

 しかし、その為にというか、本教に伝わる神の理が活かされることになります。

神仏の(とら)え方

 多くの人がどの宗教も一緒、と思っている神仏観は、実は次のように全く違います。

 仏教では、お釈迦様という人が、頭の中で創造したという如来、乃至は釈迦自体が神をも従える最高の仏と捉えるようです。

 ユダヤやキリストやイスラム教等の一神教の説く神は、自然を創造し人を泥で創ったという、宇宙人のような存在です。

 神道は諸説ありながらも、私達を産んだ親その親と(さかのぼ)ったところの大自然、それを創った宇宙を神と捉えます。

 神道の神は、私達の大元の御先祖と捉え、これは全世界に類似する神話があるように、各民族が辿り着いた叡智です。  (つづく)

 

平成30年9月号 No.1255  2018-9