(おのず)(から)(みち) 331 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

(はな)()小僧さま(()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

    (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

茅野輪の由来

 表題は、神理幼稚園で読まれる絵本の題名です。以前ここでお話しをした記憶がありますが、もう少し深められればと思います。

 今年の夏越の祭は、大元稲荷神社で七月八日に行われ、この暑い夏を元気に乗り越える事や商売繁盛等を願い、行われました。

 本教では、大祓ではなく大元稲荷の夏越祭に合わせ、()()()を本殿正面に、地元の総代・世話人・神理の会を中心に()てられます。

 茅野輪は、()(とうの)(かみ)名乗る()()()(おの)(みこと)と、裕福な弟の()(たん)(しょう)(らい)と貧乏な兄の()(みん)将来との説話に由来します。巨旦に()うたが断られた一夜の宿を、受け入れてくれた蘇民に、須佐之男命が次のようなお礼をするのです。

 茅野輪を腰に付け、或は蘇民将来の子孫と書いた札を貼った家を災難や疫病から守る、としたと伝えられます。

 そこで、一般の神社は大祓で、本教は大元稲荷の夏越祭で、力強いお守りとして、小さな茅野輪を差し上げています。

洟垂れ小僧さまの話1/2

 日本には、こうして困った人を助けたら、良い結果を生んだ、という説話が数多く伝わっています。

 表題の説話もそうした流れで進みますが、少し、その筋を追ってみます。

 昔、()(すぼ)らしい(なり)をしたお爺さんと、鼻水を垂らした小僧さんが、ある村を尋ねます。

 一夜の宿を()うのですが、余裕のある家でも泊めてくれません。

 願って廻る内に、一軒だけ泊めてくれる、貧しい老夫婦の家が見つかりました。

 (とぼ)しくとも親切で、二人に食事も分け与えてくれました。

 翌朝出立の時、お爺さんは老夫婦に、小僧さんをその家に残す相談をします。

 毎日の食事さえさせれば、きっと役に立つから、というのです。

 人の良い老夫婦は、大した期待もせずに(あずか)るのですが、実はその鼻水垂れの小僧さんは、不思議な能力を持っていたのでした。

 小僧さんは、その鼻水と一緒に老夫婦の欲しい物を出してくれるのです。

 老夫婦は、屋敷や家財道具やお米やお金や馬や牛等、色んなものを出して貰います。

 その結果、田畑や使用人も増え、とても幸せに暮らしたということです。

洟垂れ小僧さまの話2/2

 普通の昔話は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたし・めでたしで終わるのですが、この物語は続きがあります。

 幸せに暮らしていた老夫婦は、何もかも使用人達がしてくれるので、文字通り遊んで暮らせました。お気楽な毎日ですが、或る日一つだけ仕事が残っていたことに気付きます。

 洟垂れ小僧様への食事の準備でした。

 老夫婦は二人で相談して、小僧様の前に行って言います。

「これまで大変お世話になりました。

 お陰で何不自由なく暮らせるようになりました。

 でも、私達はもう高齢で、お前様に食事の支度をすることが出来なくなりました。

 そろそろ御引取り願えませんでしょうか。」

と言い渡したところ、小僧さんは何の言い(ごた)えもせず、出て行くことになりました。

 老夫婦はお礼の気持ちを込めて、立派になった門口から小僧さんを送り出します。

 ところが見送って振り返って見ると、立派な門も屋敷も消え、使用人も馬や牛もいなくなっていました。残るは貧しい元の(とま)()(わず)かな田畑だけでした、というお話しです。

 まあ、夢のような数年間を過ごせたから良いように思えますが、(ぜい)(たく)を知った人達には、元の貧乏は地獄に思えるかもしれません。

教祖の教え

 教語八十三節に、『…(なん)(にょ)(ろう)(よう)(すべ)ていつわらざる労働をなす、これを神の道という』があります。出来る事をなおざりにしてはいけないことを伝えています。

又、教語三十三節に、『人は食ふために働くにあらず。働く為に食う。…幼者は更に働くべく、老者は既に働きたればなり』があります。

 ここでは、幼者・老者などの弱者を(いたわ)ことの大切さを伝えています。

又、火水の巻の、何故病気になるか、の()()や治らない傷の所で、次のようにあります。

『…()()や治らない傷は、本人やその家族にとって(つら)いものであるが不具や治らない傷を持つ人は、家の宝と言われる。

 それは、その(つら)さに耐えて一生を生き抜くこと自体が、その根の(つぐな)いになっているからである。

 家族も本人もその(ことわり)を知り、命のあることや健康な人に比べれば少なくても、得られる幸せに、感謝することである。

 更に、不具や治らない傷は我が家の過ちへの神告と心得て耐えるだけでなく、過ちを補う行為を、神と人に向い積み重ねるのである。

又、不具や治らない傷は隠すものではなく、人目にさらすことも小さな償いの一つである。

 むやみに傷を隠し(おお)うことは、傷の根を保護し悪い根を子孫に残すことになる。

 隠そうとするより、正視すべきである。

 神理を通して正しく傷を見つめて行くのが、傷を無駄にしない方法である。

 傷は、私の家の欠点を指摘している神の声である』とあります。これは、障碍者や認知症者等を持つ家庭にも同じ事が言えます。

 現代は、まだまだとは言え、精神内科等の病院や相談制度、グループホームや養護施設等、発達してきています。

 それらと上手に付き合いながら、家族にも本人にも、より環境を工夫したいものです。

 家の宝と言うのは、決して家の恥ではなく、本当は私達が負わねばならない罪を、代わりに被ってくれている、と考えたいものです。

 童話の小僧さんのように放り出そうとせず、家の宝として、大切に考え扱う事が、実は良い根(=)を育て、全体の幸せに繋がるのです。

平成30年8月号 No.1254  2018-8