(おのず)(から)(みち) 330 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

三つの財産2(()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 5月号から、春の大祭講話を(まと)ています。

祖先と自分の、(ばつ)(ざい)(せき)(とく)(せん)(ざい)(しょう)(とく)

 筆者も若い時分、或は今でも、あわや!という失敗をして、助けられています。

 例えば、40年近く前の20才代の中頃、父の飲酒運転を嫌っていたにも(かか)わらず、酔った勢いで運転したことがあります。

 迎えに来てくれた妹が出来ないと言う回転だけを手伝う積もりが、そのまま家まで運転してしまったのでした。

 後で思うと、雲の上を進むような心地で、それだけにぞっとしたことでした。

 過去一度きりでしたが、もしかしてその時重大事故を起こしていたら、私の人生は大きく違っていたことでしょう。

 近年は、何度か寝込んで電車に鞄を置き忘れ、有り難い事にその都度見つかる、ということがありました。これらは、決して徳があったのだと自慢することでは有りません。

 先祖から戴き、或は自分がこつこつと積み重ねた徳を減らす“恥ずべき事!”と反省すべきなのです。

 飲酒運転で運良く事故に遭わなかった等は、徳の殆どを失うような、大きな過ちです。

罪と徳

 本教では、一般的な観念である(かん)(ぜん)(ちょう)(あく)を基本に罪と徳の量や質を勘案して自他を見直すという考え方をします。

 ただ、も、何とはなく感じられても目には見えないので、気が付けば自分の都合の良いように考えがちです。

 それは、金品のように、目に見えるものでもまあいいか、と浪費をするのは同じですが、より(つか)みにくい財産の一つです。

三つの財産の一

 としては、金品(動産)・不動産です。

 目に見えるものながら、相続税や贅沢で三代続かないとも言われ、時間や量に限りのある財産です。

 物理的には(くさ)りませんが、持つ人の心を貪りという七罪の一つで腐らす事もあります。

 教語の第十九節に、

神の御心に(かの)うたとは、(しん)(だい)(じん)(かく)(えい)(ぞく)(そろ)うたのをいふ。…

とあるように、(しん)(だい)(すなわ)ち金品等は、生きる為に大切なものです。

 他教団に、是等を欲を招く(けが)れた物≠ニして、寄付すれば、穢れを有益に活かして使ってあげよう等あるのは()(まん)です。

 寄付(すなわ)ち、八徳の一つである()(しゃ)は、祓いの徳であり、穢れを教団に放り込むことではなく、多ければ良いというのでもありません。

 人造教が、人類の叡智の集積である天造教の基本をねじ曲げ、教団の利益に都合良く道を付け替えるのは、畏れ多いことです。

 

三つの財産の二

 としては、徳です。

 目に見えないものながら、税金もなく腐ることもなく、時間に限りのない財産ですが、持つ人の心得次第で量に限りがあります。

 大小の失敗から救われる幸運は、徳が減ると考えるものでしょうか?

 徳の浪費と反省しつつも、開運に向かっていると受け止めたいものです。

 金品等と同じく世の為人の為に使うものですし、使えば減るのは、金品と同じで、(ほう)(とう)・浪費すれば、一気に無くなるものです。例えば、世の為人の為に冒険をする時、間一髪で危機を逃れるような使い方をしたいものです。

三つの財産の三

 としては、神の(ことわり)を知る事です。

 是を会得することで、人生の経過や代を重ねる中で、多少の増減はあっても、安定した幸せを得続けられる財産です。

 三つの財産を意識して、どれも大切にバランスを取ることで、充実した人生を送る事が出来るのです。

絶望から希望への転換点

 私達に徳が無かったとして、たった一度の過ちが引き金で、取り返しの付かない場合に(おちい)ることがあります。

 (あたか)、身体のストレスが限界を越え、突然花粉症が発症して息苦しくなるように、徳が尽きて神祖の守りが途絶えるのです。

 又、それに病気災難等の不運が重なり、人

生の坂を転げ落ちる人もいるでしょう。

 人によっては、生きてこの世の地獄にいるようなことになり、自分の命ばかりか、子孫も絶える場合もあります。そんな時、絶望の果てにいる心地がすることでしょう。

 しかし、今はどのような悪い環境であろうとも、神の(ことわり)と希望さえ失わなければ、必ず立ち戻ることが出来るのです。

 それは、人は大元の神から(わけ)(みたま)(ぶんれい)を戴き、木火土金水十柱の神から身体を戴いた、神の子だからです。

 祖先と自分が()()に罪を犯し、徳を損じていても、莫大な徳と祓いの力を持つ神を祖先に持っている有り難さに気付くべきです。

 神も祖先も、罰を与える存在ではありません。犯した罪に気付かせようとし、祓いを促し、神気を戴き、徳を積む大切さを伝えようとしているのです。

 決して、いじけたり逆恨みや居直りをするのはなく、先ず、素直に受け止めましょう!

 今の苦しみは、神と祖先の罰ではなく、何とか勘違いや不理解を理解に導こうとする、祖先の苦しみでもあるのです。

 或る時、その神と祖先の好意に気付き、自身が発起すれば、必ず事態は好転するのです。

代表信仰.(いけ)(にえ)信仰

 本教は、生活宗教ですから、こうした日常生活に活かせる教えの引き出しが、多様且つ大量に大系化してあります。

 家族や一族を代表して誰かが参拝する代表.生贄信仰ではなく、家族信仰.御道連れ信仰&継続が(ばつ)(ざい)(せき)(とく)即ち開運・幸福の秘訣です。

 家族・一族が教えを共有し話題を楽しむことが、大きな効果となるのです。

平成30年7月号 No.1253  2018-7