三つの財産2(
(古神道・神理教を“
5月号から、春の大祭講話を
祖先と自分の、
筆者も若い時分、或は今でも、あわや!という失敗をして、助けられています。
例えば、40年近く前の20才代の中頃、父の飲酒運転を嫌っていたにも
迎えに来てくれた妹が出来ないと言う回転だけを手伝う積もりが、そのまま家まで運転してしまったのでした。
後で思うと、雲の上を進むような心地で、それだけにぞっとしたことでした。
過去一度きりでしたが、もしかしてその時重大事故を起こしていたら、私の人生は大きく違っていたことでしょう。
近年は、何度か寝込んで電車に鞄を置き忘れ、有り難い事にその都度見つかる、ということがありました。これらは、決して徳があったのだと自慢することでは有りません。
先祖から戴き、或は自分がこつこつと積み重ねた徳を減らす“恥ずべき事!”と反省すべきなのです。
飲酒運転で運良く事故に遭わなかった等は、徳の殆どを失うような、大きな過ちです。
罪と徳
本教では、一般的な観念である
ただ、罪も徳も、何とはなく感じられても目には見えないので、気が付けば自分の都合の良いように考えがちです。
それは、金品のように、目に見えるものでもまあいいか、と浪費をするのは同じですが、より
三つの財産の一
一としては、金品(動産)・不動産です。
目に見えるものながら、相続税や贅沢で三代続かないとも言われ、時間や量に限りのある財産です。
物理的には
教語の第十九節に、
神の御心に
とあるように、
他教団に、是等を欲を招く
寄付
人造教が、人類の叡智の集積である天造教の基本をねじ曲げ、教団の利益に都合良く道を付け替えるのは、畏れ多いことです。
三つの財産の二
二としては、徳です。
目に見えないものながら、税金もなく腐ることもなく、時間に限りのない財産ですが、持つ人の心得次第で量に限りがあります。
大小の失敗から救われる幸運は、徳が減ると考えるものでしょうか?
徳の浪費と反省しつつも、開運に向かっていると受け止めたいものです。
金品等と同じく世の為人の為に使うものですし、使えば減るのは、金品と同じで、
三つの財産の三
三としては、神の
是を会得することで、人生の経過や代を重ねる中で、多少の増減はあっても、安定した幸せを得続けられる財産です。
三つの財産を意識して、どれも大切にバランスを取ることで、充実した人生を送る事が出来るのです。
絶望から希望への転換点
私達に徳が無かったとして、たった一度の過ちが引き金で、取り返しの付かない場合に
又、それに病気災難等の不運が重なり、人
生の坂を転げ落ちる人もいるでしょう。
人によっては、生きてこの世の地獄にいるようなことになり、自分の命ばかりか、子孫も絶える場合もあります。そんな時、絶望の果てにいる心地がすることでしょう。
しかし、今はどのような悪い環境であろうとも、神の
それは、人は大元の神から
祖先と自分が
神も祖先も、罰を与える存在ではありません。犯した罪に気付かせようとし、祓いを促し、神気を戴き、徳を積む大切さを伝えようとしているのです。
決して、いじけたり逆恨みや居直りをするのはなく、先ず、素直に受け止めましょう!
今の苦しみは、神と祖先の罰ではなく、何とか勘違いや不理解を理解に導こうとする、祖先の苦しみでもあるのです。
或る時、その神と祖先の好意に気付き、自身が発起すれば、必ず事態は好転するのです。
代表信仰.
本教は、生活宗教ですから、こうした日常生活に活かせる教えの引き出しが、多様且つ大量に大系化してあります。
家族や一族を代表して誰かが参拝する代表.生贄信仰ではなく、家族信仰.御道連れ信仰&継続が
家族・一族が教えを共有し話題を楽しむことが、大きな効果となるのです。