(おのず)(から)(みち) 328 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

本教の目的(()(きょう)(かい)は、一連の題が終了後再開)

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

(もと)()(おしえ)・古神道である本教の目的

・宗教本来の目的と勘違い

 本教の目指す信仰の在り方・目的は、高祖(にぎ)(はや)(ひの)(みこと)から数ある(えい)(まい)な先祖、又教祖を経て81代の筆者に至る迄、変わらないものです。

 宗教本来の目的は、何でしょうか。

 本教というより宗教本来の目的を三つに分けてお話しします。先ず、

1.『生前から死後に至るまでを、どう考え・工夫をし、どう良く生きるか』だと考えます。

 そこにその信仰に伝わった考え方や、宗派の教義が活かされるのです。決して集金や勢力拡大(欲や衰亡への恐怖感の裏返し?)という、勘違いに(おちい)ってはいけません。

 本教も含めて多くの教団が、時折是等の感違いに陥ることがあり、その大部分が本来の在り方に戻れないように見えます。

 何故勘違いから戻って来られないのか。

 そして何故本教は、長い歴史の中で、もし一旦勘違いをしても、その都度戻って来ているのでしょうか。一つは次の二つ目の目的が明確だからだと考えます。それは、

・御教祖の悲願

2.『この世を神世のように平和で充実した世界とすること』です。

 これを夢物語と思い込むのは、それこそ夢

も希望もない、これも勘違いだと考えます。

 宗教独特の具体性のない夢物語、と感じられる向きもあるでしょうが、違います。

 働くを、自分や家族の為だけでなく、(はた)(社会)を楽にする(役立つ)という(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)を知ると理解が進みます。

 具体化の方法は、幾つもあり、それらが相互補完を行いながら、現実をより良い、(すなわ)ち神の世の方向に進める、という考え方です。

 例えば本教御教祖の悲願は、再び医師の立場に戻って社会奉仕の施薬院を作り、又宗教家の立場から孤児院を作る事でした。

 その部分で神の世を作ろうとされたのです。

 そこまで行き着かなかったのは、なんとも残念、との言葉も(のこ)しておられます。

 明治時代には、こうした社会奉仕には、基本的に国や地方公共団体からの補助はなく、自身や有志の寄付に頼る他ありませんでした。

 しかし現代は、完全とは言えませんが、教育や社会福祉で充実している部分もあります。

・本教の貢献@

 本教は、境内の自然に恵まれた環境を、大変安価に学校法人神理学園に提供しています。

 神理学園はそれと補助金を活用し、乳幼児や卒園生を中心とする小学生達に、理想の教育環境となるように目指しています。

 正に神の世のような、教育現場です。

 35歳児の異年齢保育や”幼小一貫“等の新発想が、その実現に近づけています。

 又、その運用の流れで”幼老共生“として高年齢者のデイサービスを誘致し、常に互いが近くで刺激しあえる環境を目指しています。

 加えて、(しょう)(がい)を持つ乳幼児〜小学生の学童やデイサービスの場も提供しています。

 又、神理学園では本院に(なら)、高齢者雇用を行い、障碍者雇用も目指し、本教職員と共にその活用の場を考えています。

 形は違えど、今も本教は、御教祖(すなわ)宗教本来の悲願を達成しようとしているのです。

・何故勘違いから戻れないのか

 2.の『この世を…』を確りと踏まえていれば、勘違いから戻って来る事が出来るのです。

 しかし他教の多くは、厳しい現世を(はかな)み、いかに死後(れん)(ごく)・地獄等ではなく天国・極楽に行くか、に重点を置きすぎる嫌いがあります。

 この勘違いを利用し自爆テロ等、宗教指導者だけが得をするような(ゆが)みが生じるのです

 自分と先祖の(ばつ)(ざい)(せき)(とく)による、生前の幸福を軽く見る傾向を感じます。本教では、生前の幸福は先祖の幸福であり、その繰り返しが、死後の永遠の幸福に連動すると考えます。

 今の不幸せを(ほお)って祖先を悲しませることが、どうして死後の幸せに繋がろうか、という(けん)(ゆう)(いっ)(かん)した考え方をするのです。

 宗教団体が母体の学校の多くは、その団体の宗教教育を(ひょう)(ぼう)しています

 その宗教の教えを活用して(ぜん)(どう)(少し(ごう)(まん))するならばまだしも、その教えを信じ込ませるのが目的となれば、それは勘違いです。

 多分、自分達の教えが完全に正しいのだから、という(おご)が間違った親切心を生んでいるのかもしれません。信心は良い物の、その信仰への自身の判断能力への謙虚さとのバランスには、常に注意すべきです。

 その点、信仰自体の(あい)(まい)さを指摘され、且つ()(ぎゃく)(てき)に意識する?神道系には、宗教教育を(ひょう)(ぼう)する学校は、少ないように感じます。

 日本の神道一般は、敬神尊祖という教義基盤を持つものの、宗教へ昇華されていないからかな、とも感じます。宗教の条件である、教義・組織・教祖の三つが揃わないからです。

 その点では本教と違い、日常への活用に難が感じられますが、それを誇りにこそ思っても、決して卑下するものでは有りません。

 神道一般は、日本民族の叡智の集積から、宗教の基本を備えているものだからです。

 本教は、教義を教え込むというより、日本民族の叡智として伝わった生き方を洗練させ、共感・活用して頂くことを指針としています。

 反対に、教育や育や社会福祉を集金や勢力拡大等に使い、その(うま)()から離れられなくなると、本来の目的を見失うのは、恐ろしいことです。

・本教の貢献A

 本教では、昨年より(えい)(だい)(さい)()(ばか)を建立し、家族が地方に分散したり、子孫がいなくなるご家庭の先祖の居場所を用意しました。

 (はか)仕舞(じま)いをした後も、永く(まつ)られる安心の居場所を、高質な割に安価で利用出来ます。

 又、霊魂観や(じん)(たい)(ほん)(げん)(こう)を始め多くの教えを活用し、葬儀・霊祭・墓相・家相や()(へん)(てき)な安心して生きる為の知恵を、発信しています。

 現在続けている、御教誡や、この後紹介させて頂く、『三つの財産』始め、神道一般を補完し、生活に安心出来る思いの持ち方等です。

 是等は、教師(あるい)は教信徒の社会奉仕として、色んな人の相談・活用に(あずか)る奉仕の(たしな)みです。

三つ目として、

3.『究極的には、この世を神世とし、宗教・人種・民族・国家を問わず、全ての人が平和で充実した人生を過ごせるようになる事』です。

 その為には、この3章1節で述べた、簡易で自然な教えを理解し、先祖の霊魂(四魂)が安定することから、その守りを得る私達の心身も安定する、という誠の悟りを得る事です。

 その手法が広く活用されることを、祈るところです。

 こうした事を世の役立ちに使って頂くのが、本来の宗教の目的だと思われますし、少なくとも本教ではそう考えています。

平成30年5月号 No.1251  2018-5