(おのず)(から)(みち) 327 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))25

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 第二条の筆者付加

*神道では、死ねばどうなるか?

 一般的に『人は死ねば、神又は仏になる』と言われるのは、当らずとも遠からずで、日本人特有?の(あい)(まい)な表現だと感じます。

 古神道である本教は、『人は死ねば、祖先になる』と捉え、祖先を神仏とも見なすと似てはいるけど、結果的には大きく違います。

 ヒンドゥー教やその分派と言われる仏教では『悟りに向かって(りん)()(てん)(しょう)(色んな動物に生まれ変わる)する』と教えるようです。

 仏教も、釈迦の教えの解釈により宗派が別れ教えも異なり、輪廻転生については、認める教団も曖昧な教団もあるようです。

 日本仏教等は、仏教本来の教義にない先祖祀りを、法事として行います。

 他の動物に生まれ変わるのであれば、神道以外の殆どの教団と同じ様に、葬儀以降の(みたま)(まつり)(れいさい)は必要性が弱いものでしょう。

 しかし多分、その教えとは別に、日本の(しゅう)(ぞく)に合せたことから曖昧になったのです。

 また、修業をせずとも、題目さえ唱えれば浄土、という教えも鎌倉仏教が始まりですから、釈迦の教えにはなかったものです。

 

 仏教は、何が根拠でそう変わったのか不思議に思われますが、多分、布教の為の『嘘も方便』ということなのでしょう。

 神道も、教義の根本は『敬神尊祖』ですが、道教や儒教や仏教等の影響もあり、神社や教派によって受け止め方が違います。古神道である本教では『清明な霊魂は先祖となり、やがて子孫の守護神となる』と伝わります。

 是等の伝えは、誰も見てきた人はいませんし、科学的に証明出来るものでもありません。

 しかし神道は、日本人の叡智として、何千年も掛けて、結局そう考えるのが自然で理に適う、となった、天造の教えだと考えます。

 それは今ではほとんど(こん)(せき)のみになった、世界中の自然信仰も同じです。

 例えば、ギリシア神話の主祭神ゼウスの存在や、男神と女神の話など、数えれば切りが無いほど、日本の神話ととても似ています。

 何千何万の知恵者や霊能者が試行錯誤を繰り返し、一般の人に受け入れられるようになった考え方が、信仰として伝わったのです。

 それを、八十代を越えて、何度もそれぞれの時代に分かりやすく伝えてきたのが、(もと)()(おしえ)神理教です。

*欲は、神から人に賜った必要不可欠の本性

 私達の本教は、人は死に先祖になるとどうなる、と捉えているのでしょう?先ず、神道をある程度知る人が誰でも考えつくのは、私達に備わっている『欲』の行き先です。

 人は、衣住を保つ為に物欲、健康を維持増進する為に食欲、子孫を増やし永続の為に性欲を神から戴いています。その他にも名誉や出世など多くの欲がありますが、全て生きるための必要な神からの賜り物と受け止めます。

 

 煩悩などと言ってこれらを()()する見方もあるようですが、神道では誇りでこそあれ、決して恥ずかしいものではありません。

 御教語の第十九節にも、『神の御心に(かの)うたとは、身代・人格・永続の揃うたのをいふ。…』とあり、その正当性を説いています。

 欲を満たすことで得られる快楽は、神からのご褒美で、後ろめたいものではありません。

 この点、神道と他教とでは、結果的に殆ど真逆に違います。

 神道の信仰者は、神職とそうでない人に(かか)わらず、妻帯も魚肉の食事も、推奨されるとも、禁止・禁忌とされることはないのです。

 本教で伝える七罪の『(むさぼ)』にさえならなければ、欲は、神の子として生存と永続の為に必要不可欠な本性なのです。先ず、ここを(しっか)りと踏まえて、次に進みましょう。

*人が本来持つ欲はどうなるか?

 ではそれらの必要不可欠な欲は、(注:)迎えた時はどうなるのでしょう。

注:死=()()(())(いぬ)=人の身体に添うように在った霊魂が・神の世界(=()(わか)(みや))に帰り昇る=()(ゆう)とも言う。

 人が一旦帰幽してからは、衣住を保つ為の物欲も、健康を維持増進する為の食欲も、子孫繁栄の為の性欲も必要なくなります。

 その他の大多数の欲は、必要が無くなることによって、霧散することでしょう。

 今の私達が命を賭けてでも、守ったり稼いだりしようと思っていた殆どの欲は、必要のないものとなります。

 これも、イスラム教等の、天国は酒池肉林とは真逆です。

 となると、全く別の視点から、自分や周囲を見回し、認識し直すことになります。

 

*無神論と有神論、数千年の叡智

 では、私達が帰幽した後には、どんな感情

が残るのでしょうか?それとも、無神論者の人達が言うように、死ねばお終い、感情も何も無くなってしまうのでしょうか?

 誰も死んで帰って来た人はいないので、無神論者が正しいのか、有神論者が正しいのかは、どちらも科学的に証明できません。

 双方共仮定から始まったものながら、無神論者は無いと思った時から思考が停まります。

 思考が停まると次がないので、継続や蓄積がありません。夢も希望もないというか、殺伐とした感じです。

 それに比較して有神論者、即ち筆者や多くの神道信仰者は、在るとの仮定から、夢や希望を持って試行錯誤の継続や蓄積を始めます。

 では生前は・死後はどうなる等、そこから夢や希望を創り積み重ね、叡智を(はぐく)みます。

 どちらが真実か等の判断は誰にも出来ませんが、筆者は有神論に意義を感じます。

 日本人(だけでなく世界中の民族)は、比較的生活が安定してきたと言われる一万年も前位から、考え続けてきたのです。

 何千何万の知恵者や霊能者が、時代を越えて試行錯誤や議論を重ねて、漠然と、しかし『敬神尊祖』を主体に積み上げて来たのです。

*それでも残る欲・感情とは何か

 こうした考えを推し進めて行くと、最後に残る欲とはなんでしょう?やはりそれは、子孫の安寧と繁栄ではないでしょうか。これが神道の天国で、先祖となった自分達を忘れずに、祭祀をしてくれる喜びと安心(四魂の安定)にもなります。他教との大きな違いです。

 先祖崇拝の理由はここにあり、神・先祖・家族・子孫・社会・世界全体の平和と安心を目指す、世界共通の心の根拠だと考えます。

 人の本性は、善悪というより、神であるという思想の根拠でもあると考えます。

平成30年3月号 No.1249  2018-3