(おのず)(から)(みち) 336 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

あなたはもう(さと)っている!4.

(古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

敬神尊祖を忘れた訳、のつづき

 本見出しの、先月小見出しを・敬神(大元の神)を忘れた訳とします。9月の333号を振り返ると、(以下(さい)(かつ)加筆、神仏の(とら)え方として、

 多くの人がどの宗教も一緒、と思っている神仏観は、実は次のように全く違います。

 仏教の(にょ)(らい)は、お釈迦様という人が頭の中で創造した物で、又如来を創造した釈迦自体が神をも従える最高の仏と(とら)えるようです。

 一神教のユダヤやキリストやイスラム教等の最高神エホバは、自然を創造し人を泥で創ったという、宇宙人のような存在です。

 自然に(つちか)われた神道の神は、諸説ありながらも、私達を産んだ親と、その親を(さかのぼ)ったところの大自然、それを創った宇宙と捉えます。

 神道の神は、私達の大元の御先祖であり、これは全世界に類似する神話があるように、各民族が辿り着いた叡智です。    以上)

 これを御教祖は天造教と呼び、他はこれを真似ながら否定したり、新たに創造したりという人造教と本教では(とら)えます。

 神道には、こうした至高の神が存在するのに、多くの神道人はその存在を忘れ、目をそらしているのです。

 そして、神道を単に多神教だと思い込み、大元の神の存在を忘れ、その神社の主祭神のみを尊崇するのは、勘違いです。

 大元の神をせいぜい、神社神道の(ほん)(そう)する、天照皇大神に(とど)め、その祖先神への尊崇とその儀礼を忘れているのです。

・尊祖(霊祭の意義)を忘れた訳

 二つは、死を穢れとし、それを行うお坊さんを(さげす)むという決定的な勘違いです。

 葬儀を()むようになった理由を、筆者は江戸時代に寺請制度によって神葬祭や霊祭を禁止された神主の負け惜しみと推測します。

 日本書紀には、()()()(みの)(みこと)(ほうむ)った様子が記され、その後の霊祭も花有る時は花を、(つづみ)(ふえ)(はた)(もち)、歌い舞いて祭る、とあります。

 伊勢神宮の(あま)(てらす)(すめ)(おお)(かみ)やその父母の()()()(みの)(みこと)亡くなった時に葬儀をしたのはお坊さんですか?というおかしな話になります。

 従って、葬儀を死の穢れとして忌む等も、とんでもない勘違いです。

 いつもの繰り返しですが、死の(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は、()()(人に添う神の分霊)()(神の元に帰り昇る)です。

 死別は悲しく寂しい事ながら、同時に大元の先祖である神の元に帰るという有り難い事でもあるのです。

 死という汚れを扱う仕事はお坊さんに任せればよい、等の負け惜しみがそのまま自己暗示となり、明治に至ります。

 先月お話ししたように、太平洋戦争終結まで、神社神道では葬儀霊祭は、神主とその家族しか許可されません。

 

 しかし、多くの神主さんは、氏子への葬儀霊祭をも勝ち取る意欲が、神道布教も含めて持てなかったようです。

 それは、維新77年の太平洋戦争終結後、葬儀・霊祭・布教がなし(くず)しに自由になっても、意識はそう変わる事もありませんでした。

 歴史の真相を感じ取り、意欲を持つ神主さんは一部に過ぎなかったようです。

 それ等も、この大きな偏見により、神道布教の根幹であるにも拘わらず、金儲け主義などの陰口にさらされたことだと推測します。

 こうして、神道者の大部分は、口では敬神尊祖を唱えながらも、霊祭の意義を掴めず、実践への糸口が掴めなかったのです。

敬神尊祖の実践への糸口と問題点

 是等は神社神道だけの問題はなく、教派神道も神葬祭・霊祭と布教の許可を得ていても、怠った時代に反省が必要です。

 現在、一部とは言え、福岡県内も関東圏等でも神社神道が神葬祭・霊祭に積極的に取り組もうとしているのは、心強いことです。

 教派神道連合会も、近年情報交換を通じて、是等や永代・合同祭祀墓に、力を入れて居るのを感じます。

 素晴しい事ですが、問題点も感じます。

 教義がないと言う神社神道は、葬儀・霊祭に意義を持たせることが出来ないことです。

 それは、有り難いのだから結婚式も葬儀も一緒のお経、のような仏教も同じですから、どっちでしても変わらない部分も感じます。

 しかし、日本人は、江戸時代までは、豊かな感性から神や祖先の存在を感じながら葬儀

・霊祭を行って来たのです。それを復活・普及させるだけでも、大きな意義があります。

 教派神道の中には、本教のように霊魂観が伝わり、その安定という意義と古来からの手法を以て葬儀・霊祭を行う教団もあります。

 日本人、延いては世界の人々が、自然なる本来の信仰に立ち帰ることは、教派神道の教団の多くは望むところだと思います。

 従って、明治以来、或はそれ以前から(つちか)ってきた、祭事の次第や意義を伝えるのもやぶさかでなく、変革への糸口だと考えます。

 しかし、神社神道の神主さんの多くは、本教等から学ぶのを(いさぎよ)しとしない観があるようです。教派神道自体を、葬儀を行うお坊さんへの偏見と同じ目で、見ていると感じます。

 教派から学ぶのに抵抗があれば、国学に伝わる霊魂観や言霊学を研究すれば、一定のレベルには達すると思います。しかし、学問としての研究者もいないのが現状に見えます。

敬神尊祖の再発見

 日本人は、今は偏見に閉ざされていても、実は敬神尊祖という、神道共通の言葉に表される、最も悟りに近い位置に居ます。気付くだけの事ですし、本教の皆様には、まだ上があります。現在、敬神は世界共通でも、尊祖は日本独自の習慣になっているようです。

 葬儀をし、先祖を敬うといっても、七年或は五年十年毎というふうに、亡くなって何十年も祖先祭をする国は、(ほとん)どありません。

 本教の皆様には、敬神尊祖を見直し、是非()(こと)の悟りを開かれ生活に活かし、真の安心への道を進んで頂きたいものです。(つづく)

 

平成30年12月号 No.1258  2018-12