(おのず)(から)(みち) 334 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

あなたはもう(さと)っている!2.

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

(しん)(ずい)・悟りを得る心持ち

 人生の神髄・悟りとは何か、そしてそれはどういった心持ちなのでしょう。

 それは、先ずこれによって自分自身が安心し、幸福に向かって進んで居るという実感と確信が持てるものです。そして、同時に自分だけで完結するのではなく、周囲の人に伝え、分かち合えるものであるべきです。

 それは周囲に役立つ至高且つ、人としての内面からの悦びですから、金品で()り取りするものではありません。

 自然の信仰をする人類は、実はその悟りの直ぐ側にいて、殊に敬神尊祖を受継ぐ日本人は、世界平和と伴に、最も近くにいるのです。

 でも、(あし)(もと)にある幸せの神髄・悟りに気付かずに、お隣やその向こうの芝生(宗教)ばかりを(うらや)ましげに見ている、そんな感じがします。

 ここで伝える神髄・悟りは、そんなに難しい教えではなく、ただ素直に自分とその回りを見回し、受け入れるだけで出来る事なのです。

神髄・悟りへの歩み

 それは筆者に説明させると幾つか柱があり、先ずその数本が理解出来れば、神髄・悟りの大筋・大要が見えて来るはずです。

 武器を持たない縄文人や弥生人、或は自然の信仰をしていた民族が感得していたと思われる、神髄・悟りとは何なのでしょうか。

 これからお話しするその柱は、神道人、殊に本教の教信徒には、復習のようなものです。

一つは、先月述べた、至高の神仏の(とら)え方を基本にすると良いと考えます。

 日本民族を始めとする自然信仰の民族の、例えば神観等の叡智の集積は天造教で、他の人造教の(つい)(ずい)を許すものではありません。

 人造教が理知的で、天造教が原始的なのではなく、天造教は基本的と考えます。

 宇宙の真理!、とまで言い切れるかまでは未知なものの、それに通じるものと感じます。

 人類に人間らしい物心が付いたといわれる約一万年前から積み上げられた叡智は、真理として少なくとも数千年は続くでしょう。

二つは、先ほど、敬神尊祖を受継ぐ日本人は悟りの直ぐ(そば)にいるという事です。

 現代に、尊祖の意義を知って行う宗教や信仰は(わず)かではないでしょうか。

 日本人は、その意義を受継いでいるからこそ、人は()()から来て何処へ往くかを、漠然とではあれ感得していると言えます。

 (りん)()(てん)(せい)を信じる日本人もいるようですが、人は死ねば祖先になる、と感得しているから先祖祭をするのです。

 ややこしいのは、それを江戸時代から仏教で行うよう強制される(てら)(うけ)制度が、日本の伝統のように勘違いされているからです。

 本来、先祖祀りを行うのは、日本人の信仰・習俗なのです。

 

 (かんなぎ)()家は(ゆえ)あって豊臣方につき大阪城に(こも)ったことで、江戸初期には警戒されます。

 幽斎翁の眼病平癒をした細川氏が小倉藩主の時は好意的であり、(せい)巫部を(ひか)佐野の(うじ)使うよう助言を受ける事もありました。

 しかし、小笠原藩になって、(いん)()(じゃ)(きょう)として迫害の時代もありましたが、やがて疑いも解け、藩士との姻戚関係も出来ます。

 まあ、取るに足らない程の小ささ(ゆえ)もあってか、こうして警戒が解かれたことで、古神道を受継ぐことが出来た(たぐい)(まれ)な存在です。

 古神道の教えも古医道も神葬祭式も、古墳時代からの教えが、大きな制約を受けずに伝道されてきたのです。

 十代に一度、伝書の更新がされたと伝わります。

 そこで、敬神尊祖をもう少し具体的に伝え、人が産まれる前や生前の在り方や死後の行き先を整理して伝える事が出来るのです。

 それは即ち、人は主祭神の(こと)(あまつ)(かみ)(いつ)(はしら)から霊魂を分け戴き、()(ぎょう)(水土木火金)()(はしら)から身体を戴いて産まれます。

 産まれては、幸せを得ると共に、この世を神世とするような役立ちを喜びとします。

 死(()(ゆう))後は、先祖となり、子孫を守る喜びを得る、というものです。

 (まと)めると、神の分霊を戴きその子孫として産まれ、生を楽しみ世に役立ち、死後は先祖となり子孫を守る喜びを得る、となります。

三つは、(れい)(こん)の何たるか」と「霊魂の役割」を知っている、ということです。

 神道一般では、人は死ねば祖先即ち霊魂と

なって子孫を見守る、が普通の解釈で、それで充分だと考えます。

 国学(日本古来の習俗・信仰の研究)者の(もと)(おり)(のり)(なが)等は、もう少し深めて古事記等から三魂論を説いているようです。

 しかし、本教には古来()(こん)((さき)(みたま)(にぎ)(みたま)(あら)(みたま)(くし)(みたま))論が伝わっています。

 宣長との一魂の差は、奇魂を認めるか否かの違いです。

 それらの喜怒哀楽のような、生前と死後の役割はここでは何度も触れたので割愛します。

 しかし、これを御存知の教信徒の皆様は、同じ日本人の中でも、一層神髄・悟りに近い、といえます。

四つは、祓いの本質を知っている、ということです。神髄・悟りを得ると、どんな心地がするのでしょう。

 正に頭の上の雲が晴れ、視界が開け気持ちの良い青空が出るように、心の曇りが晴れ、全ての真実が見える心地がする事でしょう。

 本教には(こと)(だま)(がく)も伝わっています。

 これもよく触れる話ながら、(つみ)(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は、『(つつ)み・(かく)す』です。

 人には言えないような、恥ずかしい事を溜めることにより、心を曇らせている状態です。

 祓われる前は、見えそうで見えない重苦しい状態で、足の運びも悪く(うっ)(とう)しい気分です。

 ではどうすれば良いかと言うと、祓う事です。(はらい)の本言は『()(あら)』で、祓う事によって心の目・霊魂を曇らせていた罪を取り除くことで、眼界が開けるということなのです。

                (つづく)

 

平成30年10月号 No.1256  2018-10