(おのず)(から)(みち) 321 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

(ごう)(どう)(ごう)()(永代)墓と一族墓と一家墓

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 御教誡をもう少し(三回連続)お休みして、表題についてお話しします。

()()(さい)(お盆)の巡拝先祖

 先八月は、中心は十三〜十五日、早くは七月下旬から、本院では祭官が()()(さい)の巡拝を行いました。

 本院周辺には、五百軒ほどの教徒(宗旨が神理教)の家がありますが、その内の約三百数十軒を祭官が手分けをして巡拝します。

 各家の御先祖の霊魂の安定を祈りながらも、連日汗だくで行いますが、祭官は修業ともなっている事、に感謝しなければなりません。

穂見祭の(ほん)(げん)(=その言葉の持つ本来の意味)

 時折お話しすることですが、穂見祭という言葉は、文月の(ほん)(げん)の一つでもあります。

 旧暦では新暦の八月がその時期に当り、田んぼに出て見ると稲には青い穂が付いています。

 その稲穂が見える月ということで、()()(づき)となり、それが文月の本言、というものです。

 文月という言葉は、文を書く月とか、書物を虫干しにする月という説が一般的ですが、日本語は奥が深いですね。

 又、穂見祭の穂はハ行でヒに通じ、ヒは火や霊とも書き、是等の字は霊魂に通じることから、御先祖の霊魂に会う月、との解釈もあります。

 お盆という言葉は、(しん)(せん)(さい)(ぼん)(祭事用のお盆や三方)に載せ、霊前や墓前に供える事に由来するものです。従って、私達は、お盆の祭でも、穂見祭と言っても、間違っていません。

先祖(まつ)りは日本の習俗

 稲穂の見える穂見月に行う祭りだから穂見祭になったのか、霊魂に会う月に行う祭りだから穂見祭となったのかは、判然としません。

 しかし、日本人は儒教や道教や仏教が渡来する以前から、この穂見月とお正月と、年に二回の()(がん)(彼岸)に先祖祭を行って来ました。

 祭事に参列の、故人のご親戚や知人に、

「神道でも先祖祭をするのですね!」と驚かれることがあります。

 しかし、よく調べて見ると先祖祭は、自然の信仰である神道独自のものです。

 輪廻転生をするヒンズー教や仏教や、祖先との繋がりの教えのないユダヤ・キリスト・イスラム教等に先祖祭の意識は薄いのです。

穂見祭の次第

 穂見祭は普段の霊祭に比べ祝詞も短く太鼓も使わず、大部分の家では玉串が省略され、祭事自体は七〜八分で終わります。次第は、清祓詞・祓行事・穂見祭祝詞・祈念詞です。

 因みに、亡くなった方が初めて迎える穂見月・お盆を、初穂見・初盆と言います。

 家により、七・八月に帰幽した時はその翌年に行う場合もありますが、仮にでも初穂見の祝詞を奏上することになります。次第は、清祓詞・祓行事・天神奏詞・初穂見祭祝詞・穂見祭祝詞・(れい)()(れい)(ぜん)(こく)()・祈念詞・祭主挨拶、となります。

 教徒・信徒に関わらず、是非御先祖の霊魂安定の為に行われるよう、お勧めします。

 家で行いにくいときは、本院や教会の霊殿で行っても構いません。

精霊流し

 海や川に近い地域では、精霊流しを行う習慣がありますが、神道でも行って構いません。

 ただ、勘違いしないで欲しいのは、単に『御先祖様、来年までさようなら』ではない事です。

 本教の穂見祭祝詞にも、例えば『(さき)(みたま)(くし)(みたま)』があるように、本院・教会や家の神・霊殿で行う時は、家にお鎮まりの奇魂の働きがあります。

 それは、本教の四魂論の教えにあるように、家で行う時は、本院・教会の(さき)(みたま)(くし)(みたま)を始め、(にぎ)(みたま)(あら)(みたま)の奇魂をお招きしているのです。

 従って、祭事或はお盆の時期が終われば、三魂はそれぞれの鎮まり処に帰るものの、家の霊殿には御先祖の奇魂がお残りになるのです。

 決して全て(あま)()(みくに)に帰って清々した、ということではないことを理解しておきしょう。

一家の(るい)(だい)墓と一族墓

 その、穂見祭に伺った折に、近年御案内中の永代祭祀墓に、絶家したご主人の母上の実家の先祖を入れる相談を受けた時の話です。

 一家の累代墓には、例えば出戻った女性の場合、近年名前を変えない場合が増えていますが、それを何とか入れる算段はないか、との事です。

 一般の墓相学(本教も同じ)では、元の家の姓に戻らなければ、その家のお墓に入ることが出来ません。そうしたことが常識且つ知識として存在した時代は、当然のように元の姓に戻っていましたが、近年は、事情が違って来ています。

 例えば、別れた旦那は大嫌いでも、子どもの呼び方が変わると可哀相等の理由で、姓を替えない場合が増えているようです。

 (そもそも)も、別姓が一つの一家の累代墓に入らないのは、個々の姓に御先祖がいるからです。

 一つの部屋に、親族と言っても血が繋がっていない霊魂に同居させると、互いに気を使いリラックス出来ないのは、生の世界と同じです。

 自分達が出来ない・してないことを、御先祖に強要するのですから、良い筈がないのです。

 もし離縁しても姓を変えないなら、その姓の御先祖も一緒に実家の墓に入る事に気付くべきで、名前は戻した方が良いのです。

 しかし、姓が違っても親子だから良いじゃないか、という思いは中々(ぬぐ)い去れません。

 そこで、墓石の柱石を“〜家墓”からとか“魂”等に変えれば姓を戻さずとも入れる、という知恵で、今結構流行っているようです。

 これは中々優れたアイデアですが、誤魔化すようで正統に感じません。

 そこで、一族墓ならばどうでしょう。

 不特定の家族が入る合同・合祀墓が良いのであれば、一族墓も良い、という理屈です。

 氏族制度時代の日本人が行っていた事に準じている、という部分では間違っていません。

合同・合祀墓の利点

 後は比較の問題ですが、大昔の氏族制度と違うのは、その規模もですが、国内外への移動の多さでしょう。その中で一族墓は永代、誰が管理するかも考えると、返って複雑になります。

 是等を総合すると、合同・合祀墓は永代・永続性の面で優れていると言えるでしょう。

平成29年9月号  No.1243   2017-9