(おのず)(から)(みち) 320 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

家族葬について1

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 御教誡をもう二回程お休みして、表題についてお話しします。

家族葬

 家族葬とは、この字の通り家族や近親者のみで葬儀を行うことです。色んな事情で、自然とそうなる場合もありますし、一切の参列お断り、の場合もあります。

 時折、家族葬について聞かれる事がありますが、行った後や、決定後の話が大部分です。

 色々と迷った末の決断のようで、決めたら口出しをされるのが嫌なのかも知れません。

 その思い詰めた様子を見ると、提案することも遠慮されます。しかし、一人で決めず、家族は元より、葬儀社や神主やお坊さんとも、よく相談をする事をお勧めします。

家族葬をする事情1

 高齢や身内が少ないや転居等で、見知った人や親しく付き合う人が少なくなった方の場合、自然に家族葬のような事になります。

 例えば社長や校長等、付き合いの多かった方でも、九十才を越える程になると、元気な友人や元同僚も少なくなります。

 お子さんの関係で住居が離れたりすると、普段の音信が疎遠になり、連絡もつきにくくなります。

 そんな時は、自然と家族・近親者のみになり、場合によっては特にお知らせもせず、喪中欠礼の葉書等での御報告となる事もあります。

家族葬をする事情2

 他人に迷惑を掛けたくない、又、葬儀中の接待や終わった後の礼状やお返しが大変、等が理由の場合もあるようです。

 しかし、迷惑を掛けたくないと言う気持ちは分りますが、返って結果的に迷惑になったり、もっと大変になったりする事があります。

 例えば現役の社長さん等の場合、家族葬の積もりが何処かから知れ渡り、参拝者が狭い葬儀場に入れない事があります。

 その社長さんの人徳で、何とかお参りをしたいという人が多数の場合があるのです。

 又、後で聞いた方々は、何故知らせて貰えないのかと不信に思い、又、後でお参りに行っても良いのかと心配する事になります。

 そして、もし故人の遺徳を偲び、次から次に弔問に訪れることになれば、それも断る人もいるでしょうが、普通はそうもいきません。

 聞きつける度に来る人に、亡くなった時の様子や、生前の御礼を一人一人に述べる事になり、家事もままならない事もあります。

 それは故人の思い出を忍ぶのには良い事でしょうが、元々その負担を少なくする為に、行った人には、返って(あだ)となります。

 それならちゃんと葬儀をして、まとめて御礼や晩年の様子等をみんなにお伝えする方が楽だった、ということになるのです。

 筆者は、掛けてはいけない迷惑と、掛けた方が良い迷惑があると考えます。

 儀礼慣習というのは、面倒で時代遅れのように思われがちですが、意外に良く考えられている、社会の叡智でもあると思います。

 慣習も時代と伴に変化しつつあるのを感じますが、まだこれらは掛けた方が良い、返って互いが安心出来る迷惑だと考えます。

家族葬をする事情3

 又、親族の付き合い上の問題や、相続の問題や、嫌悪感から、親族を呼ばないから他人様も呼ばない、という例もあります。

 家族葬がもし故人の遺志であるとしても、皆にお別れの挨拶をする、お別れの挨拶を受ける、というのは、けじめともなる事です。

 一切を拒否するか、社会の慣習という一つの叡智に従うかは、この辺りをよく勘案されて御家族等で相談する事をお勧めします。

家族葬をする事情(又は無葬儀)4

 又、近年大都会で四割に迫ると言われる家族葬、又は無葬儀の理由は、葬儀費用の負担に耐えられない、というものです。

 どうしてこんな大金を使ってまで葬儀をしなければならないの?と言う事のようで、これは理解出来ます。

 逆に、何故日本人は、今までそれに気付かなかったの?という感じです。

 お坊さんに葬儀を頼まなければバチが当りそう、という漠然とした思いに取り憑かれていたのでは、と筆者は考えます。

 近年貧富の差が開くと言われる中で、葬儀費用の負担は重いと思われます。

 葬儀の御礼の他に戒名代、お骨も火葬が始まった昭和中期位から、喉骨(仏?)を分け、本山にも納めるという慣習が始まります。

 禅宗には(けち)(みゃく)いって、歴代貫首の子孫となるような、先祖を迷わせる慣習もあり、その都度費用が掛ります。

 一方葬儀社は、飾りを始め霊柩車や棺桶を豪華に仕立てます。

 又、都市部では墓地は高額で手が出せず、それより若干でも安い納骨堂で我慢しなければなりません。

 こうした状況の中で、日本人の意識も祖先崇拝の意識が薄くなり、

「もう止めたい。出来るなら一切止めたい」となった結果が、家族葬や火葬場葬や無葬儀となっているようです。

 お坊さんにも神官にも頼まず、火葬場でお別れをしたら、遺骨もそこで処分して貰って終り、というものです。

 それは、貧富に関わらず、増えているようです。

 筆者は、こうした風潮は何処かで(ただ)されるべきだと感じます。

 お金が掛るから一切止めようという退行的な考え方ではなく、先ず、祖先祭は日本人の精神の根幹であり大切さを理解することです。

 次に、お金を掛けずに、より意義の高い先祖祭が出来るかを考える事です。

 来月はそこをご一緒に考えましょう。

                (つづく)

平成29年7月号  No.1241   2017-7