春季大祭講話から
(古神道・神理教を“
御教誡を一回お休みして、表題についてお話しします。
今年は二日とも天候に恵まれ、染井吉野や八重桜が共に咲き誇る中で取り行われました。
大神祠にお鎮まりの神霊もさぞお喜びになられ、参拝の皆さまには、きっと大きな神徳が戴けたことでしょう。
15日には、朝の献饌式の後、日程の案内と共に挨拶をされた、弘前教会の青山
16日には、同じく福山教会の野島慎一郎先生の母上、故久子先生のお話しをしました。
それぞれの故人が教話に引用されていた、教祖の御歌と共にご紹介させて頂きました。
二つの御歌
一つ目(15日)
神や助けむ
青山先生は、二代管長が病気平癒を願う人の
『教師であろうが信徒であろうが、救いを求める人に信念を以て「治る」と言い、全力で祈れば本当に治るものである。
自分は願う人とも一緒に祭を行うが、誰もいない早朝や深夜の神殿で、一人でも行う。
これが一番集中出来る。
もし治らない時は、祈る人や願う人の信念に迷いや真心があるかを反省することである。
そこに、この御歌の神意・真意があり、お陰を戴けないのは、理解や反省や心掛けの不足を教えられているのである。
そこを心からお詫びする心境に進み、更に祈れば、特別な能力は無くとも、神は為すが(願いの)ままに助けて下さるものです。』
という風に
青山先生らしい、実績に裏打ちされた誠実さや信念の
筆者はこれに加えて【天在諸神の御神徳】という資料を配付・説明を加えました。
もしかしたら二代管長は、教祖から伝えられた皇国医学の知識から、こうしたことも考慮に入れ、裏打ちされた言葉かと推測します。
青山先生は更に、
『教師であろうが信徒であろうが、救いを求める人の悩みや苦しみを聞いて上げるだけでも、命の電話のような効果はあるでしょう。
しかし、そこで終わってはいけないと思う。
本教人である私達は、もう一歩踏み込み、
「そこで、貴方はどう成りたいのですか、と
そして、その為にはどうした心持ちが必要か、更に具体的に何をすれば良いのか導き出す手立てを、共に考える事です。』という風に、
本教に“
二つ目(16日)
打てば鳴る 打たねば鳴らぬ
打たで音聞く
野島先生は【出来ぬ修業は下されぬ】という言葉と共に、いつもこの御歌を引用して教話をされていたのを覚えています。
【出来ぬ修業は…】というのは、とても意味深い言葉だと思います。
本人にとっては、とても耐えられないと思うような現実の試練も、本当は耐えられると見通して、神が与えたのだ、ということです。
本人にとって、始めは災難と受け止めても、それは実は神からすると、お知らせ・祓いという試練なのだ、ということです。
この試練を越えてこそ、もう
又、そういう風に世の人に信頼される人になりなさい、とのお
貧乏・病気・災難を試練と感じられず、ただの苦しみとしか感じられないのは、行動をしてないからです。行動とは何か、それは祈ることであり、又、実践を重ねることです。
実践とは何か、それは現実の生活の中で、周囲の人に不満を持つばかりでなく、その人の良い所を見付け、感謝することです。
打たねば鳴らぬというのは、神・教祖・御先祖と共に、野島先生が、
「ちゃんと、お祈りをしていますか、ちゃんと人様の良い所を見付け、褒め・感謝の気持ちを表していますか?」と問い、
「その努力もせずして、現実を
それどころか、そのチャンスが不孝への転換点となってしまいますよ。
太鼓は叩かないと鳴らないのと同じく、試練を前向きに捉えて具体的な解決への施策を講じ行動に移さないと解決しません。
他人のせいにして、出来ない理由ばかりを言い
失敗を恐れず、祈りに勇気を戴き、現実に立ち向かう事との差は、とても大きなものです。」という風に、教えておられました。
こうした心持ちを常に伝えられる教会に、多くの人の信頼が集まっている、という筆者の感銘をお伝えしました。