(おのず)(から)(みち) 318 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))21

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

第二条祖恩を忘るゝことなかれ4

6)真の祖先祀りの続き

*仏教の(けち)(みゃく)

 仏教の禅宗で行われる(じゅ)(かい)()では、その教えを深めたと認められる希望者に、(けち)(みゃく)が授けられます。

 禅宗では一番尊いとされるようです。

 血脈とは、その宗祖からの僧侶の系図です。

 そして、人が死んだ時に、その紙を遺体や骨壺と一緒に埋めるものです。

 例えば慈覚大師の跡は、誰それという僧が継ぎ、その後は又誰それというように、その教えを開いた宗祖からの名を書き連ねます。

 そして、その後に、檀家の死亡した人の名を記し系統を及ぼすとして、その宗旨の一番貴重なものとしているのです。

(筆者付加→血脈の権威の高さを想像するに、山田風太郎の小説に、徳川家康がそれを受けた話しがあった。

 しかし、その子二代秀忠は将軍にも関わらず、血脈を受ける事が出来ず、その子三代家光は出来たという。

 江戸時代の初期、血脈は将軍でも受けられない人がいた程権威?があったことから、金銭が動く事となったのであろう。

 それは古代エジプトの、神の国へ行けるという「死者の書」が、王から貴族、金持ちと売られるようになった経緯と酷似している。

 人の小さな理性・智恵は、物欲に囚われると、正邪の見極めも付かずに色んな事を考えつくものである。

 分骨等も最初は金持ちへのお勧めであったものを、その結果、葬儀離れ等、本来の慣習を失わせ、自分達の首も絞めることになる。)

(筆者付加→その宗派にとっては、そうした権威付けをする事で収入になるのでしょうが、本当に故人の霊魂の安定に繋がるのか疑問です。

 長い年月に亘って霊魂と祖先祭祀を受け継いで来た先祖を切り離し、新しくその宗派の法主の系譜を接ぎ木のように取り付けるのです。

 (さい)(ほう)のパッチワークのように、もし別の系譜を貼り付けられた時、切り離された本当の御先祖達は、どう思われることでしょう。

 きっと、御先祖達は、自分達のこれからの祭祀は誰がしてくれるのだろう?

 もし祭祀は欠かさないにしても、自分達が知りもしない僧侶と一緒くたにされるの?と不安に思うことでしょう。

 そしてその不安は、子孫への病気災難というお知らせとなって表れ、解消されないともっと酷くなる事が心配されます。

 正に、しなくても良いことをお金を掛けて行う、改良の積もりが蛇足・改悪となるのです。

 それは、親から戴いた名前を戒名に替え、又、喉仏をわざわざ分骨して本山に納める等と同じ発想だと感じます。

 神道(日本人の習俗)では行わない分骨は、昭和中期から始まった火葬を起点とした、新たな集金術のように思えます。

 土葬が主流(自然の習俗)であった日本で、身体の一部をわざわざ掘り起こして別の場所に移す等、考えられないことです。

 こうした事等に、いちいちお金や手間が掛り、嫌気が差した事が重なり、現在の葬儀離れに繋がっていると思われます。)

 この血脈というものは、神の系統である人間の系統を()かすという恐ろしい手段です。

*祖先の本来の在り方

(筆者付加→神道等の長い年月を掛けて成立した自然の信仰は、基本的に自然即ち神が人を造り、それが代々に受け継がれたと受け止めます。

 その人本来の自然な系統を、個人としては天才であっても、神に比べれば極小の理性で、ねじ曲げては、結果的に(いつわ)りとなっています。

 教えの系図、即ち血の繋がってない教統を、本来の血統と取り違えさせているのです。)

 これは、仏教が如何にして人心を間違った方向に導いて、神と天皇を中心とする皇国の、純粋な白糸を染めたかという、例の一つです。

 その結果、是等の間違った考え方や教えが、血を分けて下さった親を忘れさせ、神の子孫を奪い取る、という原因となったのです。

 神の道理を(わきま)えず、人の小さな理性で思いついた、本来の血統をよじ曲げる、なんとも恐ろしい教えではありませんか。

 人は弘法(大師)や日蓮や圓光から、血脈を受けたものではありません。

 それを名誉と思い違え儀式を受ける事は、神祖先自分への道を自ら付け替え、結果的には道を閉ざすことになるのです。

 是等と違い神道では、私達に生命・財産を譲られた、真の血統を授けられた親の()(たま)が、(うぶ)()(ねの)(かみ)となり(あま)(かけ)(くに)(かけ)りされると考えます。

 そして、神と子孫の家とを往き来し、前に後ろに付き従ってお守り下さるのです。

*間違った土台の結末

(筆者付加→命を賭けた修行をしても、気付かずに人造の教えに(こだわ)ってしまえば、天造の教えから、益々離れてしまいます。

 そして、小さな理性での思い付きを“悟り”と思い誤ります。

 その結果、神から戴いた本来の血統を切り離し、よじ曲げてしまうのです。

 筆者は、烈しい修業にも関わらずそのような間違いに走ってしまうのは、土台・出発点を人造教に置いたからだと思います。

 厳しい修行も、比較ではなく土台を決めつけて間違えると、こうした勘違いの悟りにしか行き着かないのです。

 それを又清々しいと受け取る人や、それを信じる多くの人を思うと、痛ましいばかりです。

 そうして憎むことも超越した、と自身を信じ口にしながらも、気付けば(おのず)(から)の道である神道の泰然さに、苛立ちを感じているようです。

 その結果、神道は原始的で霊感を振りかざす邪宗等と、皆の意識から取り外そうと躍起になっているのではないでしょうか。

 それは、江戸幕府が国民の意識を天皇家から離そうと、キリスト教禁止を名目に、仏教での葬儀を強制(寺請制度)した事例と似ています。

 しかし太古から伝わる神道は、原始的(プリミティブ)な宗教ではありません。神道は、外国の学者の指摘のように、宗教の基本的(プライマル)な叡智を伝える信仰なのです。)

*時代を越えての(よみがえ)

(筆者付加→教祖の時代は、教祖と当時の教師教信徒の熱意により、この失敗に気付き、元の教えに立ち帰り、幸せを得る人が多くいました。

 その数は、明治27年を控える、成人男女の二百数万人の独立嘆願の署名数に表れています。

 一旦敗戦により減じたものの、又、いつでも出来る立ち直りに本教を活かして欲しいものですし、お手伝い出来ればと思います。)

 皆さんは、これを疑うことなく迷うことなく、誠を持って親に仕え、誠を持って正しく祖先神を祀りましょう。

 ご自身の家門の繁栄と、国家の隆昌を祈る心を持つべきなのです。

      第二条6)真の祖先祀り(つづく)

     

平成29年5月号  No.1239   2017-5